戦前から増刷が重ねられている岩波新書のロングセラーであり、哲学入門の名著。本書は通常の哲学史・哲学説解説書ではなく、筆者が一から新たに考え書き起こす、究極のものの一つである西田哲学の試論である。ひとつの哲学のプレゼンテーションによって哲学入門者に哲学の思考法や概念、体系を示す。
「序論」では、哲学の基礎になる概念について考察し、哲学の定義について述べる。「現実」は哲学の基底と前提になる場であり、それを常に自ら反省し続けることが「哲学の無限定性」でなけれらばならない。「人間」(主観)は「環境」(客観)という場に存在し、環境を客観として扱うことで「主体」として成立できるが、一つの客観なものでもある。主体は他の主体も自身も主体として扱うことができる。「経験」は日常において環境についての知識を得ることであり、主体と環境との行為的交渉として現れ、元来、能動的でも受動的でもある行為的なものである。経験が行為の形として形成され習慣化したものが「常識」であり、日常的・行為的知識であり、有機的なものであるが反省的性質はない。「科学」は常識を超える批判的で先取的なもの、理論的知識であり、合理性と実証性の統一である。科学には自身の基底に対する批判はないが、因果性や時間、空間など科学の前提とするものの根拠を明らかにするものが「哲学」である。また、物理、生物、心理などの分野を隔てず統合し、物の意味・目的である価値を問うのが哲学である。常識の情意的世界観と科学の客観的世界像を媒介する歴史的現実の論理、全体的人間の学が哲学である。
「第一章 知識の問題」では、まずカントやヒューム、ウィリアム・ジェイムズの認識論が検討され現象としての認識について考察をする。「物」とは、古代哲学の概念である、一定の性質と量、関係をもった実体である。「関係」とは近代哲学の概念であり、物を諸関係に分解し関係概念、函数概念によって認識にしたものである。「形」とは実体的でも関係的でもあり内容と表面、一般的なものと特殊なものが統一された表現的なもの歴史的なもののことである。また、知識は歴史の中で捉えられなければならず、アプリオリな真理をただ発見するというものではなく、相対と絶対の統一であり創造的発明的なものである。知識にも倫理があり、「真理への意志」があり良心的であることが求められる、物は認識という形成作用によって真の存在と価値になるからだ。真理は表現的なものとして我々を動かし、自己と世界を実践的に変化させ、そこからの認識は実践的な形成作用によって真に表現的なものになる。
「第二章 行為の問題」では、実践哲学、道徳哲学あるいは倫理と呼ばれているものについて考察する。道徳は主体の主体に対する行為的連関のうちにある。また、我々が自己が自己に対する関係だけではなく、我に「汝為すべし」という命令をするところに道徳の自律性がある。その主体と主体の関係によって生起するものが道徳の真理である。人間は本質的に表現的なものであり、道徳も歴史の中で世界に作られ・作られるものである。徳は活動であり、徳のある活動をすることによって徳のある人間になることができる。技術的徳と人格的徳を併せ持った人間が自身のいる社会を自発的に善くしていく義務がある。道徳的行為の目的は「善」である。善は快楽や幸福ではない、カントの厳粛主義の定言命法に基づく「心情の倫理」によって行為のうちに歴史の中で客観的に表現され客観によって科学的に認識されるものでなければならない。
内容は難解だが、本書は、筆者の真摯で理性的な現実的で実存主義的・プラグマティズム的・弁証法的な社会哲学の試みであり、個人の主体と他者、主観と客観、存在と概念、常識と科学、社会と生活、職業と芸術、技術と人格、道徳と行為などを定義し全てを統合する一つの哲学・倫理学の統一原理の追求である。時間を置いて読み返すことでそれぞれの節で新たな問題を発見できる。
*『哲学入門』というタイトルですが、通常の哲学入門書ではなく、難解な一つの「哲学書」なので、初心者におすすめすることはできません。
かようにして自己の前提であるものをみずから意識して反省してゆくことが、哲学の無前提性といわれるものの意味でなければならぬ。ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚していく過程が哲学である。(中略)その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、哲学的に自覚された現実性は必然性と可能性との統一である。(p.3)
しかしながら現実においては、経験は何よりも主体と環境との行為的交渉として現われる。経験するとは自己が世界において物に出会うことであり、世界における一つの出来事である。(p.25)
哲学の論理は根本において歴史的現実の論理でなければならぬ。哲学はどこでも現実の中になければならず、その点において常識を否定する哲学は却って常識と同じ立場に立っている。哲学は科学の立場と常識の立場とを自己に媒介することによって学と生との統一にある。(p.69)
すべての歴史的なものは形をもっている。ここに形というものは単なる形式のことでなく、内容を内から生かしているもの、内容そのものの内面的統一をいうものである。しかし形は、もとより単に内的なものでなく、外に現れたもの、表現的なものである。表現的なものとは内と外とが一つのものである。それは意味をもったものであるといっても、その意味は単に内的なものでなく、物の形に現れたものでなければならぬ。(p.123)
真の絶対とは却って相対と絶対との統一である。世界は歴史的創造的世界として、ヘーゲルの考えた如く、先験的に論理的に構成され得るものではない。我々の認識作用も歴史的創造的であり、既にある真理をただ発見するというのでなく、恰も機械が我々の発明に属するが如く、発明的なものである。(p.148)
しかし更に、真理は表現的なものとして我々を行為に動かし、自己と世界とを実践的に変化させるものでなければならぬ。表現的なものから喚び起こされた認識は、それが我々の実践的な形式作用を通じて存在のうちに実現されることによって真に表現的になるのである。真理に従って行動するということが我々の倫理である。真理は知識の問題であると同時にかような倫理の問題であるところに、知識と倫理との究極の結合がある。(p.166)
表現的なものに呼び掛けられることによって生ずる我々の行為はそれ自身表現的なものである。しかるに表現作用は形成作用である。我々は我々の行為によって我々の人間形成をしてゆくのである。人間は与えられたものではなく形成されるものである。自己形成こそ人間の幸福でなければならぬ。(p.207)
外からの呼び掛けが内からの呼び掛けであり、内からの呼び掛けが外からの呼び掛けであるところに使命はある。真に自己自身に内在的なものが超越的なものによって媒介せれたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己自身に内在的なものであるというところに、使命は考えられるのである。かような使命に従って行為することは世界の呼び掛けに応えて世界において形成的に働くことであり、同時に自己形成的に働くことである。それは自己を殺すことによって自己を活かすことであり、自己を活かすことによって環境を活かすことである。人間は使命的存在である。(p.209)
商品詳細
哲学入門
三木清
岩波書店、東京、1976年5月20日
209ページ、780円
ISBN 978-4004000082
目次
序論(1 出発点/2 人間と環境/3 本能と知性/4 経験/5 常識/6 科学/7 哲学)
第一章 知識の問題(1 真理/2 模写と構成/3 経験的と先験的/4 物 関係 形/5 知識の相対性と絶対性/6 知識の倫理)
第二章(1 道徳的行為/2 徳/3 行為の目的)