三大幸福論と幸福論の名著 要約・感想・抜粋 ラッセル・アラン・ヒルティ

三大幸福論

『ラッセル 幸福論』バートランド・ラッセル(岩波文庫)、『幸福論』バートランド・ラッセル(角川ソフィア文庫)

社会的に作られた誤った情緒や自己中心的な独断による思考や判断を指摘し、理性と客観性によってコントロールされた幸福になるためのマインドセットと努力の必要性を情熱的に理知的にラッセルの経験と観察や文学からの引用を挙げて具体的に説明するコモン・センスに基づく合理的幸福論。

前半では内閉的な自己中心性、禁欲的ペシミズムによる不幸の肯定、逃げ場のない競争社会、生活や仕事の飽きから生じる退屈と有害な興奮、他者と自分を比較してしまうねたみ、子供の頃から植えつけられた伝統的な道徳による罪の意識、他者たちからの評価に対する怯えなど現代の様々な不幸の原因を例を挙げながら説明し、時にそれらに対する対処法やマインドセットを提示する。それらは伝統や社会、メディアによってつくられた悪い心の習慣や思い込みによる不幸であり、コモンセンスによる考え方のコントロールがあれば解決できるとラッセルは考えている。例えば、退屈を耐え続けることでその中に小さな喜びを見つけること、自分の不幸や失敗など宇宙規模で考えれば些細なことでしかないと思うこと、その大きな視野で罪の意識や他者からの評価を乗り越えること、他者へのねたみや他者からのねたみを感じないことなどである。

後半では、他者に対する幅広く友好的な関心、仕事と趣味に対する過剰になりすぎない適切な熱意、生活に必要な範囲で収められ満足ができる欲望、相互的で自然な愛情、技術を高め続けた一貫した仕事による建設性、思考を新しいチャンネルに切り替えらる気晴らしとなる趣味、努力とあきらめのバランスと中庸のつまらなさに耐えること、情熱と興味を外へ向けづつけることなど現代人が幸福を得ることができる方法や生活技術、思考法を説明する。そして終章の「幸福な人」では半分、自身を客観的に見ることができ、意識と無意識や自我と社会が調和していて、心の状態と経験と行動として現実に幸福であり、他者から自然な愛情を受けまた愛情を与えられる人が幸福な人であるとする。

原題は”The Conquest of Happiness”で、『幸福の獲得』あるいは『幸福の征服』という意味であり、積極な精神の働きや行動による幸福の獲得あるいは支配を重視する幸福論。無益で有害な情緒や感情、禁欲的な罪の意識、自己中心的な地位や権力への欲望や執着を、ポジティブでバランスのとれた適切な良き情緒と熱意、自己中心性、積極性に変えることを教える幸福論であり、アランのハッシヴなオプティミズムとは違いアクティヴだがコモンセンスとレゾン、ボンサンスによる一定の節制とバランスを持ったポジティヴィズムの幸福論だと私は思った。

また、欲望や感情、情緒を理性によってコントロールでき、客観的に自己を観察し、そこからさらに積極的に外界へと関心をふりむけ行動することができる者のエリート主義的幸福論という面がある。しかし、その観点から間違った世界観や無益な道徳、大衆の「神経の疲れ」などの現代の病理であり代表的な不幸の原因を指摘し、そして、それらを全体的に最終的に乗り越える宇宙の視点、宇宙のコモンセンスから世界を現実を生活を見ることを提示しているところがこの本に教えられる最も素晴らしい教えだと私は思う。

なぜなら、最悪の場合でも、人間に起こることは、何ひとつ宇宙的な重要性を持つものではないからである。いっとき、最悪の可能性をじっくり見すえ、真の確信を持って、「いや、結局、あれはそう大したことにはなるまい」と我とわが身に言いきかせたとき、あなたは自分の心配がまったく驚くほど減っていることに気づくだろう。(p.84)

魂の偉大さを持ちうる人は、心の窓を広くあけて、宇宙の四方八方から心に風が自由に吹き通うようにするだろう。彼は、自分自身を、生命を、世界を、限りある身の許すかぎり、あるがままに見るだろう。人間の生命の短さと微小さをわきまえながら、同時に、個人の精神の中には、既知の宇宙に含まれいる価値あるものがすべて集約されていることを悟るだろう。(pp.250 – 251)

外的な事情がはっきりと不幸ではない場合には、人間は、自分の情熱と興味が内へではなく外へ向けらているかぎり、幸福をつかめるはずである。(p.267)

すべての不幸は、ある種の分裂あるいは統合の欠如に起因するのである。(中略)幸福な人とは、こうした統一のどちらにも失敗していない人のことである。自分の人格が内部で分裂してもいないし、世間と対立してもいない人のことである。そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、宇宙が差し出すスペクタクルや、宇宙が与える喜びをエンジョイする。(p.273)

目次

はしがき
第一部 不幸の原因:1 何が人々を不幸にするか/2 バイロン風の不幸/3 競争/4 退屈と興奮/5 疲れ/6 ねたみ/7 罪の意識/8 被害妄想/9 世評に対するおびえ
第二部 幸福をもたらすもの:10 幸福はそれでも可能か/11 熱意/12 愛情/13 家族/14 仕事/15 私心のない興味/16 努力とあきらめ/17 幸福な人
訳注
解説

『幸福論』アラン(集英社文庫、岩波文庫、角川ソフィア文庫)

リセの哲学教授アラン(エミール・シャルチエ)が新聞に連載したプロポ(語録、2ページから4ページほどの短いエッセ)で1905年から1926年までの中から幸福に関するものをまとめたもの。載せられるプロポは年代順ではないので、連続性はないが、1.不幸の原因となる思考、2.幸福になる具体的身体技法や気構え、3.不幸を生み出す普遍的な物事や現代社会での問題とそれへの一定の対処法、4.幸福の本質と全体的な幸福の意味、というように並べられ構成されているようである。あるいは、それぞれのプロポはこれらのどれかに分類される。

1.では心の内向性、未来への期待、他者の不幸を取り込んでしまう想像力など様々な不幸になる思考のあり方について説明する。2.では明るく優しい態度(礼儀)、体操、あくびや伸び、上機嫌でいること、一時的なものである不幸を忘却することなど自己が幸福になり他者にも幸福与える方法を述べる。3.意欲的に行動することによって不幸を忘れ幸福を得られること、与えられたものでなく自分で得たものが幸福であること、行動の中での苦痛や苦悩が幸福であることなどが例を伴って挙げられる。4.では幸福それ自体に価値があること、私たちは幸福になりそれを他者に与える義務があり、幸福になる楽観主義であるためにそれを意志する必要があることが述べられる。

その内容は不幸や不条理、運命、内科的な病気や精神病も考え方やマインドセットで解決してしまうという驚くほどのオプティミズム(楽観論)、精神論(メンタリズム)、常識(コモン・ノウリッジ)論でありパッシヴな運命論、プラグマティズム、結果論である。私にはその本の全体的な主張や思想の意味はわかるが、賛成することはできない。しかし、それらを十分に言語化し受け入れること、それに対して思考する対象としてその意味や効用についてさらに深く考察している部分があること、行動や実践の効用、身体の健康・健全さとそれらによる幸福、そして自己に幸福にある義務がありそれが他者にも幸福を与えることを書いていることにこの本を読む意味があると私は思う。

礼儀、アランの定義では、他者と世界に対する敬意ある態度やいい気分で快活に生活を送り他者もいい気分にすること、その大切さをモラル重要な要素として何度も説くという独自の思想がある。

また、あくびや伸び、体操によって身体をほぐしリラックスさせて、身体の健全さと心身のバランスを整えることが幸福の条件や幸福を得る方法であるという身体論でもあり、20世紀前半の知見としては驚異的である。

アランの『幸福論』はフランスと日本でしか読まれていない。オプティミズム、「気の持ちようで幸福になれる」というパッシブなメンタリズム、寛容の思想が特にプロテスタント国で受け入れられないためだと思う。

私はこの本を、ラッセルの『幸福論』、ショーペンハウアーの『幸福について』と比較・検討して読んでそれらのジンテーゼを捉えることが大切だと思う。少なくともこれらの幸福論に共通していて最も重要なことは、社会や他者たちによって作られた観念や情念、過剰な感情や欲望にとらわれるな、そして、それらを超えて節度のある範囲で自由に安寧に生きよ、適切なレヴェルと質の禁欲と勤勉を尊重し実行せよ、幸福な気分や行動によって幸福になりそれによって他者にも良い影響や幸福を与えよということである。

不機嫌、悲哀、倦怠などは雨や風と同じような事実なのだという考えは、実は先入観念であり、誤った観念である。そして、要するに、ほんとうの礼儀とは自分のなすべきことを感ずることである。人は敬意や慎みや正義に対しておおいに義務がある。(p.120)

もっともよいことは、どんなことも互いに関係があるのだから、人生のささいな害悪に対して、その話をしたり、それを見せびらかしたり、誇張したりしてはいけない。他人に対しても自分に対しても親切にすることだ。他人の生きるのを助け、自分自身の生きるのを助けること、これこそほんとうの慈愛なのだ。親切は喜びである。愛は喜びである。(p.230)

まじめな話にもどろう。わたしはあなたに上機嫌をおすすめする。これこそ、贈ったり、もらったりすべきものだろう。これこそ、世の人すべてを、そしてなによりもまず贈り主を豊かにする真の礼儀である。これこそ、交換によって増大する宝ものである。(p.248)

幸福であることが他人に対しても義務であることは、じゅうぶんに言われていない。幸福である人以外には愛される人はいない、というのは適切な言である。しかし、この褒美が正当なものであり、当然なものであることは忘れられている。なぜなら、不幸、倦怠、絶望は、わたしたちみなが呼吸している空気の中にあるからだ。それだから、汚れた空気に耐え、精力的な手本を示して、いわば共同生活を浄化する人々に対して、わたしたちは感謝と戦士の栄冠を捧げる義務がある。(p.286)

目次

「幸福論」1 名馬ブケファルス/2 刺激/3 悲しいマリー/4 神経衰弱/5 ふさぎの虫/6 情念/7 神託の終わり/8 想像力について/9 精神の病気/10 気で病む男/11 医薬/12 微笑/13 事故/14 惨劇/15 死について/16 態度/17 体操/18 祈り/19 あくびのしかた/20 不機嫌/21 性格/22 宿命/23 予言的な魂/24 わたしたちの未来/25 予言/26 ヘラクレス/27 楡の木/28 野心家への演説/29 運命について/30 忘却の力/31 大草原にて/32 隣近所の感情/33 家庭で/34 心づかい/35 家庭の平和/36 私生活について/37 夫婦/38 倦怠/39 速力/40 賭け/41 期待/42 行動する/43 行動の人/44 ディオゲネス/45 エゴイスト/46 王様は退屈する/47 アリストテレス/48 幸福な農夫/49 労働/50 仕事/51 遠くを見よ/52 旅行/53 短刀の曲芸/54 大言壮語/55 エレミアの哀歌/56 情念の雄弁/57 絶望について/58 憐憫について/59 他人の不幸/60 慰め/61 死者の崇拝/62 間抜けな人間/63 雨のなか/64 興奮/65 エピクテトス/66 ストイシズム/67 なんじ自身を知れ/68 楽観主義/69 解きほぐす/70 忍耐/71 親切/72 悪口/73 上機嫌/74 ひとつの療法/75 精神の衛生/76 乳への讃歌/77 友情/78 優柔不断について/79 儀式/80 新年/81 誓い/82 礼儀/83 処世術/84 喜ばす/85 医者プラトン/86 健康法/87 勝利/88 詩人/89 幸福は美徳/90 幸福は寛大なもの/91 幸福となる方法/92 幸福になる義務/93 誓うべし
解説「モラリストと哲学者の融合」白井健三郎
観賞「人生は幸福の味がする」清水徹
年譜

『幸福論』カール・ヒルティ(岩波文庫、角川ソフィア文庫)

優れた実務家でもあった筆者が、聖書の福音書の教えとストア哲学、特にエピクテトスとマルクス・アウレリウスの著作を基礎にして、生活と仕事の中でどう思考しどう行動すれば善く生き幸福を獲得することができるかを教える。真の仕事とは真面目に没頭すれば必ず興味が湧くものであり、人を幸福にするものはその創造と喜びである。しかし、もっぱら禁欲と勤勉、献身を訴えているだけで、自己啓発書的な面もあり、この本から(だけ)では人間と人格・生活・活動の全体としての総合的幸福は得られないと私は思った。

(角川ソフィア文庫版は第一部と第二部の抄訳版です。)

幸福論の名著

『幸福について』アルトゥール・ショーペンハウアー(光文社古典新訳文庫、新潮文庫)

『余録と補遺』の中の一冊であり、『意志と表象としての世界』の「私たちの認識する世界は、表象による単なる現象界でしかない。」「生の意志は欲求を持つが、その欲求は常に満足することができず人生には常に苦が存在する。」という認識論と倫理、生の哲学の思想を一般の読者向けに実践論として著した幸福論・人生論。ペシミズム(厭世主義、最悪主義)によって却って、苦悩と偶然に満ちた世界の中で、人はできる限り苦痛を避け、他者からのイメージや表象=名誉や地位ではなく、第一に本質的に価値あるもの=健康、力、美、気質、徳性、知性、それらを磨くことを含む品格、人柄、個性、人間性、第二に所有物と財産を大切にし、自身の内面の幸福を重視して合理的に消極的に快適に安全に生きるべきだとする。

新潮文庫版のタイトルは『幸福について 人生論』で、原題は、» Aphorismen zur Lebensweisheit « (“Aphorisms on the Wisdom of Life”, 『生活の知恵についてのアフォリズム(警句集、箴言集)』) だが、「本書では、生きる知恵、処世哲学をまったく内在的な意味、すなわち、人生をできるかぎり快適に幸せに過ごす術という意味で受けとめている。こうした術の手引きは幸福論と呼ぶこともできよう。」(p.9)というように、この本は実質は人生で最も大切なものである幸福について書かれた幸福論である。

「第1章 根本規定」では、ショーペンハウアーの考える人間の生活と幸福の差異をつくるもの三分類が述べられる。第1のものは、「その人は何者であるか。」(人品、人柄、個性、人間性。そして、健康、力、美、気質、徳性、知性とそれらを磨くこと。)、第2のものは、「その人は何を持っているか。」(あらゆる意味での所有物と財産。)、第3のものは、「その人はいかなるイメージ、表象、印象を与えるか。」(他人の目にどう映るか。他者の評価。名誉、地位、名声。)である。第1のものは、自然に与えられた生得的なものであり、世界の外的状況をどう把握し感情や観念を得て幸福を感じるかという本質的で絶対的なものである。その意味で健康は最も重要な財産である。第2のものは、自らによって得ることができる見込みがあり、老化によって直接奪われないという点では第1のものに勝っている。第3のものに捉われると人は一時の享楽を得ることはできても、退屈や浪費、心配事からいつまでも逃れることができない。

「第二章 「その人は何者であるか」について」では、まず、幸福であるために性格が快活で明朗であることが最も大切だと述べられる。次に、運動の効用によってその性格を快活に保つことができるとする。また、自らの中に楽しみを見出し、退屈を知らず、娯楽や遊興、奢侈に溺れないための高度な知性と感性の大切さが述べられる。そして、優れた精神により孤独を愛することができ、「自由な間暇」において自身の感受性から知性的な活動や趣味を持続性のある豊かな楽しみにし、それを味わうことができる人こそが幸福な人だとする。

「第三章 「その人は何を持っているか」について」では、自然で必要不可欠な欲求、「食」と「衣服」は苦痛にならないために必要だが、自然でも必要不可欠でもない欲求、つまり、贅沢、奢侈、絢爛豪華への欲望は満たすことができず無益で苦痛を生み出すものだとする。財産の満足は相対的であり、貧しくても満足できる者もいれば、豊かであっても満足できない者もいる、一方で成功によって豊かになった者の方が奢侈の習慣がありいつまでも不満足や不幸であるという。また、現に財産を持っているものは快楽のために用いず、不慮の厄災や事故への防壁とみなすべきである。多くの財産を持ちそれによって独立して残りの生涯を過ごせる者は、労苦や定めから解放されたはかり知れぬ利点を持っていて、退屈や浪費に溺れずに、学問研究や慈善活動によって創造的精神を発揮して生きべきだとする。

「第4章 「その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか」について」では、他者や社会からの視点や評価によって与えられた名誉、栄光、位階、名声、誇り、国家の尊厳の虚栄とむなしさを指摘し、それらが派生的・間接的・受動的な価値であること、それらと他者の思惑に捉われる人々を多くの例を挙げて痛烈に批判する。そして、最高級の優れた知的能力を持つ人は名声のためではなく、普遍的全体的な大問題の解決のためにその能力を用い学問研究や慈善活動などをすべきであるという。

幸福をもたらす人生においてエッセンシャルなものごとについては前半で書き切ってしまっていて、後半は不幸と虚しさをもたらす重要ではないものや幸福の弊害になるものに対しての批判ばかりが書かれているので、後に進むにしたがって内容が退屈になるという構造になっている本である。

性格が快活であれば幸福になれる、身体の健康や運動と幸福の関係、合理的な中庸や一定の禁欲や虚栄のむなしさを述べる本書は、ショーペンハウアーの一般的イメージであるペシミズム・不条理の哲学・悲観論とは異なる楽観論・消極論・合理論であり、アランとラッセルの『幸福論』とストア哲学とも主張が共通している点が多いと私は感じた。個人の内面のポジティブな幸福の体験や幸福な状態を重視し、その全体的・普遍的な思考のあり方や方法を説くこの人生論は、(アランとラッセルに比べて具体的な例や行動方法や身体技法は多く書かれていないが、)ヒルティ・アラン・ラッセルの三大幸福論よりも優れた幸福論であると私は思う。

才知あふれる人物は全く独りぼっちでも、みずからの思索や想像ですばらしく楽しめるが、鈍物は社交や芝居、遠出やダンスパーティーと絶え間なく気分転換しても、地獄の責め苦のごとき退屈をはねのけることができない。善良で穏健で柔和な性格であれば、貧しい境遇でも満ち足りて幸福だが、貪欲で嫉妬深く性悪だと、どんなに富があっても満足できない。(p.20)

だから良き事も、悪しき事も、大きな災禍はともかく、人生において何に遭遇し、何がその身にふりかかったのかよりも、本人がそれをどう感じたかが問題であり、何事も感受力の質と程度が問題となる。その人自身に常にそなわっているもの、要するに「その人は何者なのか」ということとその重要性が、幸福安寧の唯一の直接的なものである。それ以外はすべて間接的なものだ。(p.29)

こうした誤った道に踏み込まない手立てとして内面の富、精神の富ほど信頼できるものはない。なぜなら、精神の富が卓越性の域に近づけば近づくほど、退屈が入り込む余地がないからである。思考は無尽蔵に生き生きと、内面世界と外面世界の多様な現象にふれることで絶えず新たに活動し、それらに常に違った風に結びつける力と欲求が働くために、疲れが出るわずかな瞬間を除いて、卓越した頭脳は退屈とはまったく無縁なのだ。(pp.40-41)

「他人の目にどう映るか」というのは、他人の意識にあらわれた表象であるとともに、この表象に当てはまる概念である。こうしたものは、私たち自身にとって直接的に存在するものではまったくなく、間接的に存在しているにすぎない。つまり私たちに対する他人の態度がこれで決まる場合に、私たちにとって存在するにすぎない。(中略)それに他人の意識のなかで何が起きようが、それ自体は私たち自身にとってどうでもよいことだ。(p.88)

目次

はじめに
第一章 根本規定
第二章 「その人は何者であるか」について
第三章 「その人は何を持っているか」について
第四章 「その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか」について
第五章 訓話と金言
第六章 年齢による違いについて
解説 鈴木芳子
年譜
訳者あとがき

『私の幸福論』福田恆存(ちくま文庫)

筆者が女性雑誌に連載した幸福についてのエッセイを書籍化したもの。美醜や自由、職業、性愛、恋愛、家庭、快楽などの問題について事実や実態、良きことの認識、そして、不幸や不平等、不条理、残酷さの認識からを総合して考え、幸福な生き方を提案する積極的でもあり消極的でもある理性的・保守的・現実的な弁証法的幸福論。

 私の考えかたには救いがあるとおもいます。私は「とらわれるな」といっているのです。醜、貧、不具、その他いっさい、もって生れた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさいと申しあげているのです。(p.22)

『幸福と人生の意味の哲学 なぜ私たちは生きていかねばならないのか』山口尚(トランスビュー)

哲学の意義と限界、哲学者としての役割やレスポンシビリティーを常に念頭に置きながら、哲学の根本問題であり最大問題でもある「幸福」と「人生の意味」を様々な哲学の幸福論と人生の意味論、文学、ノンフィクション、ルポルタージュの様々な幸福と不幸の例を挙げながら別問題・別概念として誠実に精緻に検討する。

幸福と人生の意味という二つの「語りえぬこと」を徹底的に考えることで幸福と有意味な人生のあり方を捉えようとする。不幸や死、人生の無意味さの実際や条件、構造を直視しながら、アイロニーの必要性(一歩引いて没頭する自己を見ること)、それらが弁証法的に人生と幸福に与える意義も含めて、人生の意味の意味や構造。幸福の本質や根源、構成を誠実に詳細に考察しながらそのあり方に迫る。超越的な人生の意味の哲学的本質と幸福の根本的条件や性質、それらの語りえぬあり方、その「語りえぬもの」の「語りえなさ」を尊重しながら、哲学者の自らの事として自らの問題として考え抜く。

そして、本書は「幸福こそが人生の意味だ」(p.238)と結論づける。生活や活動の軌跡が超越な意味として浮かびあがり、存在や生命の神秘や尊厳を感じただそれらを信じることが幸福だという。

「どう生きるべきか」や「有意味な生き方とはどのようなものか」という問いに対しては、問いの形式に引きずられて、ついつい「……と生きるべきだ」や「……が有意味な生き方だ」と答えたくなります。(中略)これに対して本書では、この方向へ進まないことが重要だ、と主張したい。すなわち、「有意味な生き方とはどのようなものか」に関しては、具体的な答えが与えられない状態に耐えることが重要だ、と言いたいわけです。(pp.158 – 159)

本書はーー前節から続く主題ですが、ーー《幸福こそが人生の意味だ》と主張します。だがこれはそもそも何を意味しているのかと言うと、それは、人生があるがままのあり方で救われており、あるがままの意味をもつのだ、ということ。もう少し説明口調で言えば、《一切があるがままにある》という境地において人生はまさにあるがままの意味をもつのだ、ということ。簡潔に言えば、人生はあるがままの姿で美しい、ということ。美において幸福と意味が交錯します。(pp. 238-239)

幸福論の解説書

『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏(中公新書)

ソクラテスやアリストテレス、エピクロス、セネカなど古代の哲学者たちが求めた知性的な幸福や中庸の徳、心境の平静、ヒュームやカント、ベンサムなど近代の哲学者の感覚論や道徳論、快楽説と幸福との矛盾、メーテルリンクやアラン、ラッセルなど現代の哲学者が求めた郷愁や希望、楽天的な心の安らぎゆとり、コモンセンスに基づいた心の平衡としての幸福、西洋哲学史の様々な幸福論を紹介・検討して、産業社会化・消費社会化・グローバリゼーションに対抗する穏やかで静かな日常生活が幸福であり、その範囲を見定め維持することが今日の幸福論の課題だとする。

メーテルリンクの青い鳥が、夢の旅から帰ってきたチルチルとミチルの部屋の鳥籠のなかにいたように、また、夜ふけて議論を続ける猟人たちにとって犬のあくびが安眠へと誘う幸福の合図となるように、幸福はなにげない日常の出来事に導かれて自分の体と心を立て直すといった、そんな動きの積み重ねのなかに育まれる。(p.255)

『バカロレア幸福論 フランスの高校生に学ぶ哲学的思考のレッスン』坂本尚志(星海社新書)

フランスの大学入学資格試験あるいは中等教育修了資格試験であるバカロレアの哲学論文(デセルタシオン)のその独特のあり方と論述の「型」と解法、回答例を紹介してその思考の方法による論理的思考と批判的思考の重要性を述べる。

Chapitre 1では、バカロレアのシステムとそこでの哲学論文の重要性、「概念」「哲学者」「(議論の)手がかり」に分かれるリセの哲学のカリキュラムの構造を紹介する。バカロレアあるいはリセの哲学では、大学での哲学史的研究・独創的意見ではなく、「哲学という知のモデルを使って自律的・批判的に思考する力を育てる」ことが目標とされている。

Chapitre 2では、哲学論文は出題について知識を用いて批判的・自律的に考える能力を養い評価するためのもので、導入・展開・結論という「思考の型」があり、その回答のための方法と例を述べる。

Chapitre 3では、リセの講義をモデルとして多くの哲学者の幸福論・幸福説を紹介して幸福について述べる。

Chapitre 4では、教授と学生との対話形式で「幸せになるためにあらゆることをしなければならないのだろうか?」と「孤独のなか幸福でいられるだろうか」という問題について、Chapitre 3で紹介した幸福説を用いながら考察のプロセスと回答例を紹介する。

本書は本格的な幸福論の本ではなく、幸福説解説書であり、また、幸福を例題にしてフランスの哲学教育と独特なバカロレアの哲学試験の紹介をしています。哲学論文の方法を用いた論理的・批判的・弁証法的思考によって幸福になれる・精神的に豊かでいられる可能性があるというよりメタな意味での幸福についてのきっかけになる本であるとも言えます。バカロレアと幸福説紹介から入るユニークな哲学入門書でフランスの教育の紹介書です。