人生論
『生きることと考えること』森有正(講談社現代新書)
パスカルとデカルトを専門とする哲学者がパリでの20年の生活を経て得た自己の経験や哲学、生活術を、入門編としてデカルトの『方法序説』のように知的自叙伝として述べる。
本書の中心となるのは、パリでの「経験」と「感覚」という概念への目覚めである。情意の影をおびた関係や豊かな人間交渉を生み出すパリでの「感覚」の目覚め、それは、私とものがつくり出す「感覚」や「経験」は自然や世界によって与えられた物であるということであり、筆者の言う「感覚」とは、感覚が感覚においてわれわれが生きていることの全てがあらわるものだということである。風景や家が単なるモノから生きがいや意味を与えてくれるものとなること。その「感覚」が豊かになり成熟し一つのことばとして表すことができるのが「経験」である。そして、定義される「ことば」と定義する「経験」を、経験を超えながら反省し結びつける力が「精神」だとする独自の現象学的・実存主義的思想が述べられる。
次に、その独自の哲学によって自身の半生が豊かに解釈されて述べられている。一方で、哲学や文学、音楽とそれによる内省が豊かな経験と感覚をつくり出すという。そして、「よく生きる」とは「よく考える」ことであり、「よく考える」とは「よく生きる」ことであり、現実と言葉が結び合って自分の「経験」を織り成しながら生きるということである。
1970年より重版を重ねる講談社現代新書の歴代発行部数24位でありロングセラー。当時のティーンエイジャーや若者によく読まれた哲学入門・哲学エッセイの名著。
その意味で、ことばをほんとうに自分のことばとして使うということが、実はその人が本当に生きるということと一つになる。ほんとうに生きることによって、個的なものと普遍的なものとが、自分の名前を与えるという決定的な行為において、自分の中の経験に結びつけられて普遍的なものとなるということです。(p.84)
人間にとっては「生きること」と「考えること」を離すことは事実上できません。つまり、「よく生きる」ということは「よく考えること」、「よく考えること」は「よく生きること」で、この二つは離すことができない。私はそう思うのです。(p.190)
『人生の哲学』渡辺二郎(角川ソフィア文庫)
「I 生と死を考える」では、哲学と人生の根本問題としての死と生を哲学的存在論的な次元の問題として考える。生と死をセットとして考えることに特徴であり、死を無になることだとしたエピクロス、「死へ向かう存在」としての現存在の自覚が本来性だとしたハイデッガーを基礎にしながらサルトル、モンテーニュ、ヤスパースの議論を挙げて批判的に考察し、ポジティブな生の契機としての死のあり方の可能性を述べる。
「II 愛のふかさ」では、まず、人生の形式と力、その目的が神となるフィヒテの愛の概念、実存へ生命への覚醒を呼びおこすものとしてのハイデッガーの良心の概念を紹介する。次に、すべての世界や生命を尊重して善く生きたいと願う源としての広義の愛の概念を考える。人生には苦悩や挫折があり、底に暗い「情念」があるからこそ愛が花開くという。
「IV 幸福論の射程」では、まず、幸福にはその基礎条件としての「安全としての幸福」、自己超克や理想と価値の実現としての「生きがいとしての幸福」だけではなく、理性信仰によって得られる、存在が与えられたことと生命の美しさ、そして、その美しい存在である他者との心の理解に目覚め感じる「恵みという幸福」の3つがあるという。次に、「社会的儀礼の勧め」であるアラン、「外向的活動の勧め」であるラッセルの幸福論を紹介し、それらの優れた点と疑問を述べる。 しかし、アランとラッセルの幸福論は楽観論であり、不幸や苦悩に充分に対応することはできず、「内省と諦念の勧めである」ストア派とショーペンハウアー、「揺るぎない信仰の勧め」であるヒルティと三谷隆正の幸福論の要点を紹介し、それらの方に幸福論としての正当性があるとする。
「V 生きがいへの問い」人生の充実と肯定の問題であり、以上に取り上げてきた議論も含めて人間の全てに係わるものとしての生きがいの問題について考える。しかし、真の生きがいを得るには自身の充実と幸福だけではなく、人倫を尊重し、現在の時代状況を注視しながら、ヒューマンな社会が実現されるように一定の参加をしなければならない。そして、第二次世界大戦後でありグローバリズムの時代である現代において、私たちは意志と知性、実存と理性が結びついた豊かな展望を持って「良心的ヒューマニズム」の立場に立って、態度決定やそれなりの政治参画をし、また各自の使命や役割における生きがいの達成のために人生を生き尽くさなければならない。
主にハイデッガーとヤスパース、サルトルの実存主義とドイツ系の哲学とくにドイツ観念論、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、そして、プラトンやエピクロス、エピクテトス、セネカと言った古代哲学や文学、ギリシャ神話、キリスト教、仏教などの幅広い知見を用いて生と死、愛、幸福、生きがいといった「語りえぬ」の人生の問題について深く追及していく。(筆者がそのように考えているかはわからないが、)宗教、特に一神教に替わるものとして、人生の意味や価値、肯定、倫理、救いを与えてるものとして哲学を扱い、そういったものとして哲学を考え、普遍的で大きな広義の生と死、普遍愛、幸福、他者・社会との関係性構造、人生の意味の構造を描き出していく。「語りえぬ」ものを語っているからこそ、全体はドイツ観念論的なキリスト教的色彩を帯びていて、哲学的根拠のある「宗教的なもの」、語りえぬものを語り、言葉によって言葉を超えていく、宗教に替わるものとしての哲学のあり方や価値を人間のLebenの問題の範囲の中で徹底的に追及している。
真摯で熱意を感じる本であるが、考察の前提やプロセスの部分で教科書的に(この本は元々、放送大学のテキストだが)良きこと・善きことを決めつけているところやコモンノウリッジで考えているところ、その決めつけによって説明を省いているところがある。その一方で、教科書的という範囲を超えて、理想主義的、精神論的、ポジティヴィズムによる記述や表現がある。その意志や情熱を保持しながら、哲学的思考や哲学的真理に基づいて「正しく」人生の構造的普遍的課題を認識して、「良心的ヒューマニズム」によって現代人が本当によく生き充実した生活を送るための思想をこの本は示している。
あらゆる人が、それぞれの人生の持ち場で、それなりの仕方で、ヒューマンな人類社会の歴史的形成に参画しなければならない。そうしたなかでのみ、各自の人生行路の実りも、個と普遍、部分と全体、意志と知性、実存と理性とを繋ぐ豊かな展望をえて、しっかりと着実に、時代の現実のなかに根ざして、大きく成長するであろう。各個人のそれぞれの持ち場での実感と体験、個別と特殊の状況、そのかけがえのない独自な人生経験は、時代の現実のもつ普遍と全体の構造、その複雑多岐にわたった意味連関とその交錯、その共通した広範な人類史的脈絡と、共鳴し合い、振動し合って、そこに彩り豊かな人生模様を生み出すはずである。私たちは、そうした人生の複雑な襞と綾のなかに織り込まれ、浮沈しながら、人生の柵のなかで、各自、必死に生きがいを求め、人生行路を歩んでいるのである。(p.386)
目次:I 生と死を考える/II 愛の深さ/III 自己と他者/IV 幸福論の射程/V 生きがいへの問い/単行本版 まえがき/付録「研究室だより」人生とは何か/解説 人情あふれる哲学教師としての渡邊二郎 森一郎/人名索引
『人生論』レフ・トルストイ(新潮文庫、岩波文庫)
生命を哲学的にその本質を問うことから始まる生命(life)論としての人生論。動物の生命と人間の生命の理解と対比からトルストイは人間の生が時間と空間に規定されずそれらを超越する集合的歴史的なもので「世界に対する関係」だと考える。人間の理性的意識をよく用いて快楽の欺瞞と死に対する恐怖を退け、愛という人間の唯一の理性的活動によってあらゆる人が他者を愛し他者の幸福のために生きることが真の幸福である。
生命とは、理性の法則に従った動物的個我の活動である。理性とは、人間の動物的個我が幸福のために従わねばならぬ法則である。愛とは、人間の唯一の理性的な活動である。(p.143)
『人生論ノート』三木清(角川ソフィア文庫、新潮文庫)
幸福や虚栄、人間の条件、孤独、利己主義、秩序、娯楽、旅など様々なテーマにおいて、考察と批判、虚無や矛盾の認識によって人生の意味とは何か、現代人はいかによく生きるべきかを表す哲学倫理学エッセイ集。付属する「語られざる哲学」は、若き筆者が語られざる哲学=懺悔によって自らの生活や学問に対する態度の中の傲慢や虚栄心、利己心を徹底的に批判・反省し、真理を尊重する謙虚で剛健な哲学者として生きる決意を示す。
人生が運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。(p.146)
『人生論・愛について』武者小路実篤(新潮文庫)
『生きるということ』エーリッヒ・フロム(紀伊国屋書店)
ストア派
『生の短さについて』セネカ(岩波文庫)、『人生の短さについて』セネカ(光文社古典新訳文庫)
「生の短さについて」は、仕事や享楽に忙殺されず、哲学と徳を大切にし、欲望を制御し生命ををよく活用するなら人生は長いとする。「心の平静について」は、欲望、猜疑心、未練や嫉妬に悩まされず心を平静に保つには、どんなことにも執着せず、必要以上の多くの財産や金銭を持たず、無理な栄誉や達成を求めず、程よい中庸な生活を送り自分を信頼することが大切だとする。「幸福な生について」は、幸福な生とは、自らの自然の本性に合致した生であり、どこまでも快楽を求めるのではなく、理性と徳によって自分のもっているものを受け入れ満ち足りた喜びを感じる生であるとする。最高善とは精神の調和である。(光文社古典新訳文庫版は、「幸福な生について」ではなく「母ヘルウィアへのなぐさめ」が収録されています。
ストア哲学では理性によって欲望と感情から解放されることで心の平静を得ること、快楽ではなく徳こそが善であり幸福の条件だとした。(快楽には悪徳であるものもあり、快楽によって不幸な人もいる。)倹約によって財の使用や所有を適度な範囲にとどめ、「みずからの自然に合致した生」が幸福な生だとした。しかし、「ストイック」という単語のイメージと違って過激な禁欲は求めていない。過度な禁欲や貧困の状態では、善き理性や精神を養うことができないからである。
『自省録』マルクス・アウレリウス・アントニウス(岩波文庫、講談社学術文庫)
『人生談義』エピクテートス(岩波文庫)
『語録 要録』エピクテートス(中公クラシックス)
『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』國方栄二(中央公論新社)
日本で数少ない本格的で包括的なストア哲学の解説書。キュニコス派やアリストテレス、エピクロス派といったストアのルーツからゼノン、キケロ、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスの諸説を検討し、「ストイックに生きる」とは何か、理性的に生きどのように幸福になるか、というストア哲学の本質を描き出そうとする。
『エピクロスとストア Century Books 人と思想』堀田彰(清水書院)
前半はエピクロスの生涯と規準学・自然学・倫理学に分けてエピクロスとルクレティウスの快楽主義を解説する。後半はエピキュリアニズムと対立するようで類似するストア哲学を、キティオンのゼノンの生涯とゼノンやセネカ、エピクテトスの思想を紹介し、同様に知識論・自然学・倫理学に分けてストア哲学の理論を解説する。
その他
『エピクロス―教説と手紙』エピクロス(岩波文庫)
3つの手紙と主要教説、2つの断片集、エピクロスの生涯と哲学の解説が収められている。「ヘロドトス宛の手紙」は、自身の倫理学のベースとなるヘロドトスに強い影響を受けた原子論の自然哲学の体系が簡潔に述べられている。「ピュトクレス宛の手紙」は、自然哲学のうち特に気象学と天体と天界についての理論が述べられている。「メノイケウス宛の手紙」では、自身の倫理学のエッセンスと思慮によって善く生きることのすすめが述べられる。主要教説と断片は、文章量としては短いが、エピクロスの特に快楽主義の倫理学の考えが十分に理解できるものになっている。
『快楽主義の哲学』澁澤龍彦(文春文庫)
エピクロスの快楽主義をベースにして、ストア派の禁欲主義やダンディズム、サディズムも取り込んで孤高の隠者・精神の貴族として自らの快楽を追い求める快楽主義を積極的・煽動的に肯定する。そして、現代日本の商業主義的・大衆的でレジャー思考の快楽のあり方を批判する。
言い換えれば、本書の主張とは、日常の幸福よりも非日常の快楽を、将来をめざした長期的計画よりも今この瞬間を生き尽くす充実を、そのためには何よりも人並みの凡庸ではなく孤高の異端をという、単純明快な煽動なのである。(解説より)
『孤独と不安のレッスン』鴻上尚史(だいわ文庫)
孤独は悪いものでも恥ずかしいものでない、自分との対話である「本物の孤独」は、豊かな時間と成長を与えてくれ、鴻上さんが30人に1人いるという本物の孤独を理解してくれる人と出会うことに導いてくれる。どんなチャンピオンや成功者でも次に負けたり失敗をする可能性はあり「絶対の保証」はなく誰でも不安を無くすことはできない、不安を「前向きな不安」として次の行動やチャレンジのきっかけにすべきだという。劇作家・演出家の鴻上尚史の自身の経験と観察に基づいた人生のアドヴァイス集。
「一人であること」は、苦しみでもなんでもありません。「本当の孤独」を体験した人なら分かりますが、ちゃんと一人でいられれば、その時間は、とても豊かな時間です。(p.21)
「本当の孤独」とは、自分とちゃんと対話することなのです。(p.23)
『二十歳の原点』高野悦子(新潮文庫)
恋愛と学生運動に悩み時代の中に消えた立命館の女子大生の瑞々しさとニヒリズムが入り混じった詩的で哲学的な日記。
人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることではなく、不完全さでありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。(p.7)