人生論・ストア哲学の名著リスト

人生論

『生きることと考えること』森有正(講談社現代新書)

パスカルとデカルトを専門とする哲学者がパリでの20年の生活を経て得た自己の経験や哲学、生活術を、入門編としてデカルトの『方法序説』のように知的自叙伝として述べる。

本書の中心となるのは、パリでの「経験」と「感覚」という概念への目覚めである。情意の影をおびた関係や豊かな人間交渉を生み出すパリでの「感覚」の目覚め、それは、私とものがつくり出す「感覚」や「経験」は自然や世界によって与えられた物であるということであり、筆者の言う「感覚」とは、感覚が感覚においてわれわれが生きていることの全てがあらわるものだということである。風景や家が単なるモノから生きがいや意味を与えてくれるものとなること。その「感覚」が豊かになり成熟し一つのことばとして表すことができるのが「経験」である。そして、定義される「ことば」と定義する「経験」を、経験を超えながら反省し結びつける力が「精神」だとする独自の現象学的・実存主義的思想が述べられる。

次に、その独自の哲学によって自身の半生が豊かに解釈されて述べられている。一方で、哲学や文学、音楽とそれによる内省が豊かな経験と感覚をつくり出すという。そして、「よく生きる」とは「よく考える」ことであり、「よく考える」とは「よく生きる」ことであり、現実と言葉が結び合って自分の「経験」を織り成しながら生きるということである。

1970年より重版を重ねる講談社現代新書の歴代発行部数24位でありロングセラー。当時のティーンエイジャーや若者によく読まれた哲学入門・哲学エッセイの名著。

 その意味で、ことばをほんとうに自分のことばとして使うということが、実はその人が本当に生きるということと一つになる。ほんとうに生きることによって、個的なものと普遍的なものとが、自分の名前を与えるという決定的な行為において、自分の中の経験に結びつけられて普遍的なものとなるということです。(p.84)

 人間にとっては「生きること」と「考えること」を離すことは事実上できません。つまり、「よく生きる」ということは「よく考えること」、「よく考えること」は「よく生きること」で、この二つは離すことができない。私はそう思うのです。(p.190)

『人生の哲学』渡辺二郎(角川ソフィア文庫)

「I 生と死を考える」では、哲学と人生の根本問題としての死と生を哲学的存在論的な次元の問題として考える。生と死をセットとして考えることに特徴であり、死を無になることだとしたエピクロス、「死へ向かう存在」としての現存在の自覚が本来性だとしたハイデッガーを基礎にしながらサルトル、モンテーニュ、ヤスパースの議論を挙げて批判的に考察し、ポジティブな生の契機としての死のあり方の可能性を述べる。

「II 愛のふかさ」では、まず、人生の形式と力、その目的が神となるフィヒテの愛の概念、実存へ生命への覚醒を呼びおこすものとしてのハイデッガーの良心の概念を紹介する。次に、すべての世界や生命を尊重して善く生きたいと願う源としての広義の愛の概念を考える。人生には苦悩や挫折があり、底に暗い「情念」があるからこそ愛が花開くという。

「IV 幸福論の射程」では、まず、幸福にはその基礎条件としての「安全としての幸福」、自己超克や理想と価値の実現としての「生きがいとしての幸福」だけではなく、理性信仰によって得られる、存在が与えられたことと生命の美しさ、そして、その美しい存在である他者との心の理解に目覚め感じる「恵みという幸福」の3つがあるという。次に、「社会的儀礼の勧め」であるアラン、「外向的活動の勧め」であるラッセルの幸福論を紹介し、それらの優れた点と疑問を述べる。 しかし、アランとラッセルの幸福論は楽観論であり、不幸や苦悩に充分に対応することはできず、「内省と諦念の勧めである」ストア派とショーペンハウアー、「揺るぎない信仰の勧め」であるヒルティと三谷隆正の幸福論の要点を紹介し、それらの方に幸福論としての正当性があるとする。

「V 生きがいへの問い」人生の充実と肯定の問題であり、以上に取り上げてきた議論も含めて人間の全てに係わるものとしての生きがいの問題について考える。しかし、真の生きがいを得るには自身の充実と幸福だけではなく、人倫を尊重し、現在の時代状況を注視しながら、ヒューマンな社会が実現されるように一定の参加をしなければならない。そして、第二次世界大戦後でありグローバリズムの時代である現代において、私たちは意志と知性、実存と理性が結びついた豊かな展望を持って「良心的ヒューマニズム」の立場に立って、態度決定やそれなりの政治参画をし、また各自の使命や役割における生きがいの達成のために人生を生き尽くさなければならない。

主にハイデッガーとヤスパース、サルトルの実存主義とドイツ系の哲学とくにドイツ観念論、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、そして、プラトンやエピクロス、エピクテトス、セネカと言った古代哲学や文学、ギリシャ神話、キリスト教、仏教などの幅広い知見を用いて生と死、愛、幸福、生きがいといった「語りえぬ」の人生の問題について深く追及していく。(筆者がそのように考えているかはわからないが、)宗教、特に一神教に替わるものとして、人生の意味や価値、肯定、倫理、救いを与えてるものとして哲学を扱い、そういったものとして哲学を考え、普遍的で大きな広義の生と死、普遍愛、幸福、他者・社会との関係性構造、人生の意味の構造を描き出していく。「語りえぬ」ものを語っているからこそ、全体はドイツ観念論的なキリスト教的色彩を帯びていて、哲学的根拠のある「宗教的なもの」、語りえぬものを語り、言葉によって言葉を超えていく、宗教に替わるものとしての哲学のあり方や価値を人間のLebenの問題の範囲の中で徹底的に追及している。

真摯で熱意を感じる本であるが、考察の前提やプロセスの部分で教科書的に(この本は元々、放送大学のテキストだが)良きこと・善きことを決めつけているところやコモンノウリッジで考えているところ、その決めつけによって説明を省いているところがある。その一方で、教科書的という範囲を超えて、理想主義的、精神論的、ポジティヴィズムによる記述や表現がある。その意志や情熱を保持しながら、哲学的思考や哲学的真理に基づいて「正しく」人生の構造的普遍的課題を認識して、「良心的ヒューマニズム」によって現代人が本当によく生き充実した生活を送るための思想をこの本は示している。

あらゆる人が、それぞれの人生の持ち場で、それなりの仕方で、ヒューマンな人類社会の歴史的形成に参画しなければならない。そうしたなかでのみ、各自の人生行路の実りも、個と普遍、部分と全体、意志と知性、実存と理性とを繋ぐ豊かな展望をえて、しっかりと着実に、時代の現実のなかに根ざして、大きく成長するであろう。各個人のそれぞれの持ち場での実感と体験、個別と特殊の状況、そのかけがえのない独自な人生経験は、時代の現実のもつ普遍と全体の構造、その複雑多岐にわたった意味連関とその交錯、その共通した広範な人類史的脈絡と、共鳴し合い、振動し合って、そこに彩り豊かな人生模様を生み出すはずである。私たちは、そうした人生の複雑な襞と綾のなかに織り込まれ、浮沈しながら、人生の柵のなかで、各自、必死に生きがいを求め、人生行路を歩んでいるのである。(p.386)

目次:I 生と死を考える/II 愛の深さ/III 自己と他者/IV 幸福論の射程/V 生きがいへの問い/単行本版 まえがき/付録「研究室だより」人生とは何か/解説 人情あふれる哲学教師としての渡邊二郎 森一郎/人名索引

『人生論』レフ・トルストイ(新潮文庫、岩波文庫)

生命を哲学的にその本質を問うことから始まる生命(life)論としての人生論。動物の生命と人間の生命の理解と対比からトルストイは人間の生が時間と空間に規定されずそれらを超越する集合的歴史的なもので「世界に対する関係」だと考える。人間の理性的意識をよく用いて快楽の欺瞞と死に対する恐怖を退け、愛という人間の唯一の理性的活動によってあらゆる人が他者を愛し他者の幸福のために生きることが真の幸福である。

生命とは、理性の法則に従った動物的個我の活動である。理性とは、人間の動物的個我が幸福のために従わねばならぬ法則である。愛とは、人間の唯一の理性的な活動である。(p.143)

『人生論ノート』三木清(角川ソフィア文庫、新潮文庫)

幸福や虚栄、人間の条件、孤独、利己主義、秩序、娯楽、旅など様々なテーマにおいて、考察と批判、虚無や矛盾の認識によって人生の意味とは何か、現代人はいかによく生きるべきかを表す哲学倫理学エッセイ集。付属する「語られざる哲学」は、若き筆者が語られざる哲学=懺悔によって自らの生活や学問に対する態度の中の傲慢や虚栄心、利己心を徹底的に批判・反省し、真理を尊重する謙虚で剛健な哲学者として生きる決意を示す。

人生が運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。(p.146)

『人生論・愛について』武者小路実篤(新潮文庫)

『生きるということ』エーリッヒ・フロム(紀伊国屋書店)

ストア派

『生の短さについて』セネカ(岩波文庫)、『人生の短さについて』セネカ(光文社古典新訳文庫)

「生の短さについて」は、仕事や享楽に忙殺されず、哲学と徳を大切にし、欲望を制御し生命ををよく活用するなら人生は長いとする。「心の平静について」は、欲望、猜疑心、未練や嫉妬に悩まされず心を平静に保つには、どんなことにも執着せず、必要以上の多くの財産や金銭を持たず、無理な栄誉や達成を求めず、程よい中庸な生活を送り自分を信頼することが大切だとする。「幸福な生について」は、幸福な生とは、自らの自然の本性に合致した生であり、どこまでも快楽を求めるのではなく、理性と徳によって自分のもっているものを受け入れ満ち足りた喜びを感じる生であるとする。最高善とは精神の調和である。(光文社古典新訳文庫版は、「幸福な生について」ではなく「母ヘルウィアへのなぐさめ」が収録されています。

ストア哲学では理性によって欲望と感情から解放されることで心の平静を得ること、快楽ではなく徳こそが善であり幸福の条件だとした。(快楽には悪徳であるものもあり、快楽によって不幸な人もいる。)倹約によって財の使用や所有を適度な範囲にとどめ、「みずからの自然に合致した生」が幸福な生だとした。しかし、「ストイック」という単語のイメージと違って過激な禁欲は求めていない。過度な禁欲や貧困の状態では、善き理性や精神を養うことができないからである。

『自省録』マルクス・アウレリウス・アントニウス(岩波文庫、講談社学術文庫)

『人生談義』エピクテートス(岩波文庫)

『語録 要録』エピクテートス(中公クラシックス)

『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』國方栄二(中央公論新社)

日本で数少ない本格的で包括的なストア哲学の解説書。キュニコス派やアリストテレス、エピクロス派といったストアのルーツからゼノン、キケロ、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスの諸説を検討し、「ストイックに生きる」とは何か、理性的に生きどのように幸福になるか、というストア哲学の本質を描き出そうとする。

『エピクロスとストア Century Books 人と思想』堀田彰(清水書院)

前半はエピクロスの生涯と規準学・自然学・倫理学に分けてエピクロスとルクレティウスの快楽主義を解説する。後半はエピキュリアニズムと対立するようで類似するストア哲学を、キティオンのゼノンの生涯とゼノンやセネカ、エピクテトスの思想を紹介し、同様に知識論・自然学・倫理学に分けてストア哲学の理論を解説する。

その他

『エピクロス―教説と手紙』エピクロス(岩波文庫)

3つの手紙と主要教説、2つの断片集、エピクロスの生涯と哲学の解説が収められている。「ヘロドトス宛の手紙」は、自身の倫理学のベースとなるヘロドトスに強い影響を受けた原子論の自然哲学の体系が簡潔に述べられている。「ピュトクレス宛の手紙」は、自然哲学のうち特に気象学と天体と天界についての理論が述べられている。「メノイケウス宛の手紙」では、自身の倫理学のエッセンスと思慮によって善く生きることのすすめが述べられる。主要教説と断片は、文章量としては短いが、エピクロスの特に快楽主義の倫理学の考えが十分に理解できるものになっている。

『快楽主義の哲学』澁澤龍彦(文春文庫)

エピクロスの快楽主義をベースにして、ストア派の禁欲主義やダンディズム、サディズムも取り込んで孤高の隠者・精神の貴族として自らの快楽を追い求める快楽主義を積極的・煽動的に肯定する。そして、現代日本の商業主義的・大衆的でレジャー思考の快楽のあり方を批判する。

言い換えれば、本書の主張とは、日常の幸福よりも非日常の快楽を、将来をめざした長期的計画よりも今この瞬間を生き尽くす充実を、そのためには何よりも人並みの凡庸ではなく孤高の異端をという、単純明快な煽動なのである。(解説より)

『孤独と不安のレッスン』鴻上尚史(だいわ文庫)

孤独は悪いものでも恥ずかしいものでない、自分との対話である「本物の孤独」は、豊かな時間と成長を与えてくれ、鴻上さんが30人に1人いるという本物の孤独を理解してくれる人と出会うことに導いてくれる。どんなチャンピオンや成功者でも次に負けたり失敗をする可能性はあり「絶対の保証」はなく誰でも不安を無くすことはできない、不安を「前向きな不安」として次の行動やチャレンジのきっかけにすべきだという。劇作家・演出家の鴻上尚史の自身の経験と観察に基づいた人生のアドヴァイス集。

「一人であること」は、苦しみでもなんでもありません。「本当の孤独」を体験した人なら分かりますが、ちゃんと一人でいられれば、その時間は、とても豊かな時間です。(p.21)

「本当の孤独」とは、自分とちゃんと対話することなのです。(p.23)

『二十歳の原点』高野悦子(新潮文庫)

恋愛と学生運動に悩み時代の中に消えた立命館の女子大生の瑞々しさとニヒリズムが入り混じった詩的で哲学的な日記。

人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることではなく、不完全さでありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。(p.7)

「語られざる哲学」三木清(角川ソフィア文庫)要約

1

語られざる哲学とは懺悔であり、和らぎへりくだる心のことである。それは講壇や研究室の哲学ではなく、深さと純粋を求めるわずかな人によって同情され理解されることを求める哲学である。

この試みは傲慢な心ではなく謙虚な心、つまり静けさと安けさに導く。自分の知識のなさや思考力の弱さの自覚は、私たちを善き生活への憧憬と邁進に向かわせるだろう。

2

正しい問い方正しい出発点をとることが大切である。語られざる哲学の問題は、どういう風に正しく提出されるだろうか?それは、1. いかにして良き生活は可能であるか?(形式の問題)2. よき生活はいかなるものであるか?(内容の問題)として挙げられる。私がよき生活と呼んでいるものは、正しき生活と美しき生活も含んでいる。語れる哲学の学徒は自然主義者ではなく理想主義者となる。そこでは、生活を改善しない知識や現実を支配しない理想は無意味である。真理に関する知識は生活することの中から得られる。

3

現実に対して不満を感じ疑いを持つことから語られざる哲学は始まる。その懐疑説あるいは懐疑主義は、心臓で感じるものであり、単なる論理によって征服されない。それは生活上の懐疑主義である。

懐疑が否定されるのは、1. 懐疑が徹底されていない時、2. 懐疑の動機が正しくない時である。懐疑主義者の心は虚栄心や傲慢、不真面目ではなく、謙虚で真面目でなければならない。懐疑は一般的なもの古いものだけではなく、新しいもの特殊なものにも向けられ、外的なもの他律的なものを排して、純粋な内面と自律に向かう努力によって成立する。それは、精神の真面目な悩みであり、よき生活への意志を動機にしなければならない。真の懐疑は剛健な自分自身の否定も恐れない心による徹底的な全体の否定によって可能になる。

4

人生あるいは実在の本質は活動にある。正しい懐疑はよき心によって行われるよので、それは絶大なる活動である。しかし、そこには傲慢な心でなく、へりくだる優しい謙虚な心がある。

悪に対しての強い心は、善に対しての優しい心になる。私は自分自身に対しての反抗により、自己を否定し破壊しつくすによって初めて他人に対して何をするべきかを知るだろう。

活動性と反抗性が私を懐疑から遠ざけている間に第三のものが私の心に生まれ、それは懐疑を取り払った。それは、永遠なるものの存在とそれによる現実の改造の確信、あるいは価値意識の存在とその経験意識の支配の信頼、もしくは自由の可能の確信である。文化的価値が自然的価値の中に現れてくる過程を歴史とするなら、それは歴史的過程の存在の確信とそれの最後の感性への絶対の信仰だとも云える。通俗的な言葉を用いるならば、それは良心と理想の存在とそれの現実の規定力の確信である。その確信によって、私は未来への希望を失うことがなくなった。私を哲学に導いたのは、永遠のものに対する憧憬、プラトンがエロスと呼んだものである。そして、私は思索生活の全体を理想主義者として過ごすだろう。

5

西田先生の『善の研究』、スピノザやカントの哲学は、学問が論理的遊戯や単なる功利的実践的知識であるという私の無知な誤解を一掃した。理性とは真の自己そのものであり、永遠なるものを求める情熱の源になるものだからである。その永遠なるものへの愛によって、真に正しき形而上学的要求にもとづいた哲学的生活は成立する。

6

懺悔とは、自己をしみじみと眺め、自己に対してさえ何も教えようとしない絶対に謙虚な心である。語られざる哲学は自己の無智の認識より承認される。

哲学や学問の体験が反省的な根強さも深さもいない人、哲学史の知識を得意気に語る人、科学の知識を単に実用に役立てる利口な人やただの専門学者にとどまる人には哲学がないのが事実である。哲学は知られるものでも教えられるものでもない。それはただ実際にフィロゾフィーレンする人、実際に哲学に生き哲学を生きた人にとってのみ存在する。フィロゾフィーレンする人する人にとっては論理的なものや普遍的なものこそ人生を正しく美しく生きるために必要である。イデーに生きイデーを生かそうとする生活、イデーの力に対する希望と信頼の中に哲学的生活の本質はあり、そこからしか真の哲学は誕生しない。ヘーゲルが云ったように、真理の勇気と精神の力の信仰が哲学の第一条件である。

魂の秀れた哲学者とは永遠なるものへの情熱の深き人々で、真によき宗教や哲学や道徳や芸術や学問への憧れと努力において喜びに満ち溢れつつ悩んでいる。彼らは内面に還る心、自ら真理を求めようとする心が哲学の根底において尊ぶべきものであることを知っている。

7

私は芸術の懐疑と退廃と憂鬱に影響されたが、一方で私は芸術によって健康的なもの、自由なもの、生命的なものの豊かさに目覚め、やがて価値の転換と概念の改造が私の中で起こった。

8

反省とは自分を知るということである。それは知的興味ではなく道徳的宗教的な要求からなされる真理の探究であり、学問の知識ではなくて、闇そのものの真理である。反省は個々の感覚、表象、感情、意志などの平面的な横の関係だけではなく立体的な縦の関係、そして内奥に潜めるものを探究する。

私の心の中にあるものは神の装いをしているが悪魔の象徴であることを発見した。魂はイデアの世界を知っているからこそ、身体は肉体の牢獄にありながらイデアの世界を憧れ求めづつけることができる。

9

この論考の中の重要な問題は、 1. 語られるざる哲学の出発点は何か? 2. いかにしてよき生活は可能か? 3. よき生活とはいかなるものか? ということである。

二つ目の問題は、合理的な論理ではなく非合理において信仰によって与えられ、概念的思惟ではなく実際によき生活を送ることによって、回答が得られると私は考える。だが、よき生活を可能にする必然的制約は、 1. 永遠なる価値の存在 2. 完成の可能性、とこの二つに関係し安定を与える 3. 絶対者の存在であると私は信じる。

完成の可能の希望がなければ、よき生活は不可能である。私たちの魂が最後の完成に至ることができないならば、私たちの活動や生活は全く意義を失ってしまう。永遠なる価値を求める文化的生活は、長い過程を経たとしても自然的生活を征服するか内抱しなければならない。生活への意志は最後には文化的生活への意志に転生されなければならない。自然を駆逐して包摂してその領域を広げていく文化の歴史は文化の絶対支配の到達を可能にさせるものでなければならない。自由の完成、救済の完成がなければ私たちの生活もあり得ない。

 永遠なる価値への信仰 完成の可能性の希望が虚しくないためには、それらに最後の安定を与える絶対者が存在しなければならない。絶対者は、永遠なる価値の創造者であり支持者であり、私たちの自己を顕現し最後の完成を可能にする。神や仏や理性や価値意識という何かの絶対者が存在しなければ、私たちの生活も学問や芸術や道徳も全てが虚妄にとどまるだろう。

また、私はこの問題を概念的な言葉でなく詩的な言葉で説明する。よき生活を可能にするのは、1. 夢(永遠なるものに酔う心)、2.素直(剛健な謙虚な心)、3.愛(主客の完全な合一)である。

10

よき生活とはいかなるものか?という第三の問題は複雑であるが、その指導理念の特に重要なものを取り出してきて、私が正当にとるべき生活態度を明瞭にしたい。

まず、生活において「何を」経験するかということよりも「いかに」経験するかということが大切である。同じ経験も経験する人の心の中では異なったかたちとして現れる。偉大な精神な些細な事柄にも深い意味を見出す不思議な力を持っている。鈍い精神の持ち主は大きな経験に遭遇しても、それが理解できず価値あるものとならない。私たちには多くの経験よりも深い体験をすることが重要である。そして、謙虚な心のみが全ての体験を意味あるものにすることができる。

次に、外に拡がっていく心よりも内に向かって堀さげていく心が必要である。経験や知識を表面的にしか味あわないジレッタントを私は拒絶する。ダ・ヴィンチやゲーテは、現実の生活の広い領域を征服し体験していたが、同時に関係した多くの領域に深い理解を持っていた。

11

よき生活を生きようとする人が最初に必要とするものは素直な心であり、その特質は謙虚剛健である。素直な心は、虚栄心と自負心を退けつつへりくだって真の自己の姿を眺め(謙虚)、醜さを受け入れつつどんな悪も弁解しない(剛健)。真の懺悔は、素直な心によってのみ可能である。私たちのよき生活は素直な心の反省によって自己を正視し、虚栄心と自負心を全て捨てるところから始まる。素直な心は、ジレッタンティズムでもセンチメンタリズムでもなく、自己の心の純粋をアフェクティションによって維持する。

素直な心は、何に対しても驚かない心ではなく、永遠のものや偉大なものに驚き、これらのものに信仰を持つことができる心である。よき生活を生きるためには、イデアリストフマニストである必要がある。イデアリストはこの世を超越した永遠のものに憧れ、フマニストは醜悪な人間性の中に宿る神性を見出そうとする。天上の価値を憧れる、あるいは自己の地盤を掘り下げるような、拡がりと幅だけを持った平面ではない、深さを持った心の空間が必要である。(空間的生活)また、素直な心は、伝統や権威に支配され服従するものではなく、夢見つつ創造して自由な心によって自分の心のつくった偶像に身をゆだねるものである。

私の根本思想は、楽しみや嬉しさの意義や価値を否定するものではなく、それらを肯定するものである。悲しみや苦しみは、人の心を謙虚、反省的、内向的、活動的にする。つまり、悲しみや苦しみは人を真面目にする。一方で、それらは人の心を卑屈にさせ、猜疑的にする。楽しみや嬉しさは、人を不真面目にさせ深い体験をすることを忘れさせるが、一方で、素直な心を育てる。楽しみや嬉しさと悲しみや苦しみの調和が必要である。私は瑣末な楽しみよりも偉大な苦しみを求める。それ以上に偉大な楽しみを喜ぶ。私は、偉大なる苦しみを尊敬し、偉大なる楽しみに憧れる。

12

個性は、心理学の知識ではんく、謙虚な心によってのみ可能な反省の知識である。 それは概念的知識によって十分に認識することはできない、心の内奥のそのものに関する真理の一部である。個性の理解の強さと深さは、反省の力の強さと深さに基づく。センチメンタリストには性格の強さも深さもない。

真の個性は普遍的なものが自ら分化発展してできたものの中に見出される。個性の根底は普遍的なものであり、それが自分の能力と活動によって内面的に発展して特殊なものになる。 

個性は永遠なるものへの信仰に関係していて、それがある時私たちの生活の中の価値の転換を遂行し私たちの内面を更新することがある。個性の価値的同一は意志の自由によって成立する。

商品詳細

人生論ノート 他二篇
三木清
KADOKAWA、東京、2017年3月25日
648円、304ページ
ISBN: 9784044002824

  • 人生論ノート
  • 語られざる哲学
  • 幼き者のために
  • 解説 岸見一郎

『人生論ノート』三木清(角川ソフィア文庫、新潮文庫)要約

幸福

過去の哲学者にとって、幸福が倫理の中心問題であった。ストア主義は幸福のための節制を説いた、アウグスティヌスやパスカルも人はどこまでも幸福を求めるということを哲学の基礎とした。幸福について考えないことは現代人の特徴である。幸福について考える気力を失うほど不幸であるか、幸福を考えることが不道徳だと感じるほど不幸なのではないか?しかし、幸福を知らない人が本当の不幸が何なのか理解できるだろうか?

良心とは幸福の要求である。幸福の要求ほど良心的なものはない。以前の倫理学は幸福の要求がすべての行為の動機だということを共通の出発点にした。幸福のない倫理は、どれだけ論理的だったとしても虚無主義にしかならない。

幸福はただの感性的なものではなく、主知主義と倫理上の幸福説が結びつくことを思想の歴史が示してる。現在の反主知主義は幸福説を拒否することから出発している。

幸福は徳に反するものではなく、幸福そのものが徳である。他者の幸福について考えなければならないが、自分の持っている幸福以上の善いことを他者に与えることができるだろうか?

「人格は地の子らの最高の幸福である。」というゲーテの言葉は完全な定義である。幸福になるということは人格になるということである。幸福は肉体的快楽と精神的快楽、活動と存在、どの中にもある。人格は肉体でも精神でもあり、活動でも存在でもある。また、人格はそれらの複合作用により形成されるものである。現代は人格の分解の時代であり、これは逆に幸福が人格であるということを証明する。

懐疑について

懐疑は知性の一つの徳である。懐疑は人間特有のものであり、人間的な知性の自由さは懐疑のうちにある。モンテーニュの最大の知恵はその懐疑に節度があるということだ。真の懐疑者はソクラテスであり、懐疑が無限の探究だということを示した。

真の懐疑は成熟を示すものである。方法についての熟達は教養の最も重要なものだが、懐疑の中に節度があることが最も教養的なことである。

懐疑は精神の習慣性を破るものであり、それは知性の優越を現している。確実なもの、つまり目的は形成されたものであるが、原理は不確実な根源であり、懐疑はその根源へ関連づけることで確実なものを導く方法である。懐疑によって形成された人生は確実なものである。

虚栄について

虚栄は人間的自然の中の最も普遍的で固有な性質である。人間の生活は実体のないものでありフィクショナルなものである。つまり、人生はフィクション=小説である。人生の実在性は物的なものではなく、小説の実在性と同等で、実体のない人生がどうやって実在性を持つかということが根本問題となる。

人間的なパッションはヴァニティ=虚無から生まれ、その現象において虚栄的である。人間的創造は虚無の実在性を証明するためにある。虚栄によって滅亡しないために、人は毎日の生活において虚栄的であることが必要であり、それが人生の知恵である。

虚無の実在性を証明する創造的な生活によって虚栄をなくすことができる。創造はフィクションを作ることであり、フィクションの実在性を証明することである。

名誉心について

どんなに厳格な人も名誉心を放棄しないだろう。ストイックというのは名誉心と虚栄心を区別して、後者に誘惑されない人のことである。虚栄心は社会を対象にするが名誉心は自己を対象にし、名誉心は自己の品位についての自覚である。ストイックは本質的に個人主義者であるが、その品位が名誉心に基づく場合、その人はよき意味における個人主義者である。

人間の条件について

自己は虚無の中に浮く一つの点である。生命は虚無ではなく、虚無はむしろ人間の条件である。生命とは虚無を搔き集める力であり、虚無からの形成力である。虚無の集積によって作られものが虚無ではない。

私は自己は世界の要素と同等なものには分解されず、世界の異なるものとしてあると考える。世界が人間の条件であることによって虚無はそのアプリオリである。世界のものは、虚無であるものとして人間の条件である。

虚無は人間の条件あるいは人間の条件であるものの条件なので、人生は形成であるといことが導き出される。自己は形成であり、人間は形成されたものであり、世界も形成されたものであるから、それは人間の生命にとって現実的に意味のある環境となる。

生命は関係でも関係の和でも積でもなく、虚無から形成された「形」である。古代哲学は実体概念いよって思考し、近代哲学は関係概念または機能概念によって思考したが、新しい思考はそれら二つの総合として「形の思考」でなければならない。

現代人はアノニムなだけはないアモルフな無限定な世界に住んでいる。テクノロジーや交通の発展はすべてのものを関係づけ実体的なものを分解し、かえってそれを厳密に限定した。しかし、現代の世界は限定され尽くされた結果、形としてはかえって無限定なものになっていて、それが現代人の無性格につながっている。

孤独について

孤独には美的な誘惑があり、味わいがある。孤独の中のより高い倫理的意義に達することが重要である。

孤独によって私は対象の世界を全体として超えている。孤独な時、人は物から滅ぼされはしない。孤独を知らない時、人は物において滅ぶ。

瞑想について

瞑想は甘美であり、人はそれを欲する。

魅力的な思索は瞑想のミスティックで形而上学的なものに基づいている。すべての思想は、本来、甘いものである。

瞑想は甘美なものであるから人を誘惑する。だから、真の宗教はミスティシズムに反対する。瞑想がその甘さに誘惑される時、それは夢想か空想になる。

利己主義について

私たちの生活の原則はgive and takeであり、意識的でなければ利己主義者にはなれない。利己主義者は自分の自意識に苦しめられる。

実証主義は本質的に非常であり、その果てが虚無主義である。利己主義者は中途半端な実証主義者であり、自覚のない虚無主義者である。利己的であることと実証的であることは自己弁護のため、他社攻撃のため入れ替えられる。

利己主義者は期待しない人間で、信用もしない人間なので、常に猜疑心に苦しめられる。

すべての人間が利己的だとする社会契約説は、想像力のない合理主義が生み出した。社会の基礎は契約ではなく期待であり、期待の魔術的拘束力によって社会は構築される。

秩序について

一見、無秩序に見えるものの中にこそ秩序は存在し、外見的なものよりも心の秩序が大切であり、そこには温かさと生命の存在がある。

秩序は常に経済的なものであり、最小の費用で最大の効率をあげるという経済原則は秩序の原則でもある。節約は秩序尊重の一つの形式であり、大きな教養そして宗教的な敬虔に近づく。節約は倫理的な意味も持ち、無秩序は多くの場合浪費から起こる。心の秩序は金銭の使用にも関連する。

心の秩序は知識だけではんく、能力=技術の問題である。このことが理解され、その能力や技術が獲得されなければならない。ソクラテスは技術の比喩を用いて徳は心の秩序だと言った。

道具技術から機械技術への変革のようなものが道徳の領域にも要求される。「作ることによって知る」という近代科学の実証的精神が、道徳においても必要である。

仮説について

生活は事実であり、経験的なものであるが、思想には常に仮想的なところがある。考えるということは生活の一部分であるが、それが生活から区別されるのは考えるということの中に「仮説的に考える」ということが本質的に存在するからである。

確実なものは不確実なものによって生まれるが、その逆ではない。確実なものは形成されるものであり、この形成する力が仮説である。

人生も仮説的なものであり、それはそれが虚無につながるためである。人々はそれぞれの仮説を証明するため産まれてくる。だから人生は実験である。人生は小説家の創作行動に類似し、その仮説は単なる思惟ではなく、構想力あるいはフィクションを作る力に属する。論理的意味でなく存在論的意味において人生の仮説は不定なもの、可能的なものである。人間の存在は虚無を条件とするだけはなく虚無と混合されている。その仮説の証明は小説と同じように創造的形成=実験でなければならない。

常識を思想から区別するのは、それには仮説的なところがないことである。常識はすでにある「信仰」であり、信念はいらない。

娯楽について

生活を楽しむことを知らねければならない。それが「生活術」であり、技術であり、徳である。生活の技術によって、どこまでも生活の中にいて生活を超えることによって生活を楽しむことが可能になる。

娯楽は、他の仕方における生活である。かつては宗教的なものと祭りだけが娯楽であった。近代的生活の分裂から娯楽の観念が生じた。生活の一部分であるはずの娯楽が生活と対立させられている。近代的生活は非人間的になったが、その生活に苦痛を感じる人が求める娯楽も非人間的なものでしかない。

祭りは他面の秩序であったが、現在では生活と娯楽は対立している。その根源に現代の秩序の思想の欠如がある。

パスカルは、より高い秩序から見ると、生活のあらゆる行為は、真面目な仕事も道楽も全て余技でしかないと考えた。この思想に回帰することが生活と娯楽の対立を払拭するために必要である。娯楽の概念の基礎にも形而上学がなければならない。

現代の文化の堕落の原因の一つが、文化に対する専門外の娯楽的な接し方であるといえる。現代の教養の欠陥は、教養が専門とは別の娯楽の形式によって求められることが原因となっている。「娯楽を専門とする人」が出現し、純粋な娯楽が作られ、娯楽は生活から離れてしまった。そして、一般人にとって娯楽は参加するものではなく、ただ外から見て享楽するものになった。

しかし、本来は、娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。それらが人格的統一をもたらす必要があり、生活を楽しむこと=幸福がその際の根本概念でなければならない。娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならず、また、生活の技術は生活の芸術でなければならない。娯楽は生活の中にあって生活のスタイルを作るものである。娯楽はただ消費的・享楽的なものではなく、生産的・創造的でものでなければならず、単に見て楽しむだけではなく、自分で作ることによって楽しむことが大切である。

体操とスポーツだけは生理に働きかける「健全な娯楽」であり、私は娯楽の中でそれだけは信用できる。それは身体ではなく精神の衛生である必要がある。

生活を楽しむ人はリアリストで、技術のリアリズムを持っていなければならない。本当に生活を楽しむには、生活において発明的で、特に新しい生活意欲を発明することが重要である。それができる人はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である。

希望について

運命というものの符号を逆にしたものが希望である。人生は運命であり、希望でもある。人間は運命的な存在なので生きているということが希望を持っているということである。

生きることは「形成する」ということであり、希望は生命の形成力である。我々の存在は希望によって完成へ向かう。希望による形成は無からの形成という面があり、運命とはこの無ではないか?希望は無から生じるイデーによる力である。

旅について

旅に出るということは、日常の生活環境や習慣的な関係や行動から逃れることである。旅の嬉しさとはこの解放の嬉しさである。人生から脱出するために旅に出る人もいる。なので、旅の対象は自然や自然的生活となる。旅は人々に漂泊の感情を抱かせる。そこに旅の感傷がある。

漂白の感情は移動の感情であるが、むしろそれは宿に落ち着いた時に感じられる。短距離の一泊の旅であっても人はその「遠さ」の感情を味わう。旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである。旅の中で人は浪漫的になり、また浪漫とは遠さの感情である。

旅は絶えず過程であり、その途中を味わうことができない人は真の旅の面白さを知らない。私たちは日常生活では常に到達点や結果のみを問題とするが、そこから脱出する旅は本質的に観想的なものであり、それが旅の特色である。人生に対する旅の意義はそこにある。旅において人々は純粋に「見る人」になることができ、日常の既知のものや自明のものとして前提にしていたものに対して新しい驚異や好奇心を感じる。旅は経験であり、教育でもある。

「どこからどこへ」ということは人生の根本問題であり、人生は未知のものへの漂白である。「どこへ行くか」という問いは、「どこから来たか」を問わせる。過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じる。漂泊の旅はノスタルジアを伴うのと同様に人生の行路は遠く感じるが、だからこそ人は夢見ることや想像をやめないだろう。観想によって、旅は人生を味わわせる。そして、距離や長さに関係なく旅で出会うのは自分自身である。旅は人生そのものの姿である。

旅の真の自由は「ものにおいて」の自由であり、動即静あるいは静即動に徹した人だけが真に旅を味わうことができる。その人は人生においても真に自由な人である。人生が凝縮されたものが旅である。

商品詳細

人生論ノート 他二篇
三木清
KADOKAWA、東京、2017年3月25日
648円、304ページ
ISBN: 9784044002824

人生論ノート
語られざる哲学
幼き者のために
解説 岸見一郎