バイエルよりやさしいピアノ初学者のための教本と楽譜リスト

トンプソン「小さな手のためのピアノ教本」

アメリカのピアニスト・作曲家ジョン・トンプソンによる、ピアノを初めて学ぶ人のための入門教材です。鍵盤の位置や指番号、音符の読み方、リズムなど、ピアノ演奏に必要な基本を、短く親しみやすい曲を通して段階的に学べるように構成されています。各曲には歌詞が付けられ、イラストも用いられているため、音楽を言葉や視覚的なイメージと結びつけながら学習できることが特徴です。大人の初学者が使用する場合にも、譜面を読むことと鍵盤を操作することを結びつけ、少しずつ演奏に慣れていくための導入教材として活用できます。一方、曲の構成や使用されている音域は初歩的な内容が中心であるため、ある程度の読譜経験がある人には簡単に感じられる場合があります。教師は、正しい指使いや鍵盤上の位置関係を確認するとともに、拍子を意識した演奏や旋律の歌わせ方も指導するとよいでしょう。成人のレッスンでは、本書で基本を学びながら、学習者が興味を持つクラシック作品や馴染みのある旋律を併用すると、練習への意欲を保ちやすくなります。

「トンプソン 小さな手のためのピアノ教本」
(全音楽譜出版社)

バーナム「ピアノ・テクニック」

エドナ・メイ・バーナムによる、ピアノ演奏に必要なテクニックと表現力を養うための練習曲集です。「歩く」「走る」「跳ぶ」「深呼吸する」といった身体の動きをイメージさせる題名が付けられており、短い課題を通して指や手、腕の使い方を具体的に学べることが特徴です。一曲が短いため、まとまった練習時間を確保しにくい大人の初学者にも取り組みやすく、日々のウォーミングアップや主教材の補助として利用できます。練習を重ねることで、指の独立性、左右の手の協調、鍵盤上での動きの切り替え、音の長さや強さのコントロールなどを意識できるようになります。ただし、課題を機械的に繰り返すだけでは、演奏技術の向上につながりにくい場合があります。教師は、手首や腕に余計な力が入っていないか、指先だけで無理に鍵盤を押していないか、音の粒やリズムがそろっているかを確認しながら指導することが大切です。また、短い練習曲であっても、音の方向性や強弱、フレーズのまとまりを意識させることで、技術と音楽表現を同時に学べます。バイエルやほかの入門教本、好きなレパートリーと併用し、実際の作品で必要になる動きを補強する教材として活用するのがおすすめです。

「バーナムピアノテクニック 導入書」
(全音楽譜出版社)

「ピアノ・アドヴェンチャー」

ナンシー・フェイバーとランディ・フェイバーによる、演奏技術、読譜、音楽理論、聴音、創造的な音楽活動を総合的に学べるピアノ教材シリーズです。ベーシック・シリーズは複数のレベルで構成され、各段階で「レッスン&セオリー」と「テクニック&パフォーマンス」を組み合わせながら学習を進めます。音符の読み方やリズム、音程、和音などの基本事項に加え、初見演奏、移調、即興、作曲といった幅広い活動を取り入れている点が特徴です。単に楽譜に書かれた音を再現するのではなく、音楽の仕組みを理解し、自分で考えながら演奏する力を育てることを目指しています。大人の初学者にとっても、演奏と理論を関連づけて学べることは大きな利点です。例えば、ある曲で学んだ音程や和音の知識を、別の曲の読譜や簡単な伴奏づくりに応用すれば、知識を実際の音楽に結びつけることができます。教師は、各課題の目的を明確にし、演奏課題だけでなく、楽典や初見、聴音なども学習者の進度に合わせて組み込むと効果的です。また、課題の量を一律に増やすのではなく、理解できている内容と復習が必要な内容を区別することも重要です。成人向けのレッスンでは、教材に収録された曲だけでなく、学習者の好みに合った作品を並行して扱うことで、基礎の習得と演奏する楽しみを両立させやすくなります。

「ピアノ・アドヴェンチャー
レッスン&セオリー レベル1 CD付き」
(全音楽譜出版社)

「アルフレッド・ピアノライブラリー」

アメリカのアルフレッド・ミュージックから刊行されている、初心者から中級者へと段階的に学習を進められるピアノ教材シリーズです。ウィラード・A・パーマー、モートン・マナス、アマンダ・ヴィック・レスコらによって整備された教材体系では、レッスン・ブックを中心に、音楽理論を学ぶセオリー・ブック、演奏曲を収録したリサイタル・ブック、奏法を学ぶテクニック関連の教材などを組み合わせて使用できます。大きな特徴は、音符を一つずつ暗記する方法だけに頼らず、隣り合う音や三度、四度、五度といった音程の関係に注目して楽譜を読む方法を取り入れていることです。これにより、個々の音を認識する力だけでなく、旋律の形や音の動きを捉える力も養えます。また、段階が進むにつれて、調性、臨時記号、強弱、アーティキュレーションなどを学び、読譜力と演奏表現を少しずつ発展させていきます。大人の初学者にとっては、学習事項が明確で、基礎を体系的に整理しながら学べることが利点です。教師は、譜読みが進まない原因が音名の理解にあるのか、音程の把握にあるのか、指使いにあるのかを確認し、必要な項目を補うとよいでしょう。学習者の年齢や関心、理解の速度に応じて適切なコースを選択することで、より無理のない学習計画を立てられます。

「アルフレッド・ピアノライブラリー
基礎コース レッスンブック レベル1A」
(全音楽譜出版社)

ギロック「はじめてのギロック」

アメリカの作曲家・音楽教育家ウィリアム・ギロックによる、初級者向けのピアノ小曲集です。短く取り組みやすい作品を中心に、舞曲風の曲、バロック風の小品、情景を描いた作品、ジャズの要素を取り入れた曲など、さまざまな様式に触れられるように構成されています。基本的な読譜や指の動かし方を学びながら、旋律の歌わせ方、強弱、アーティキュレーション、和音の響き、リズムの特徴といった音楽表現を身につけられることが大きな魅力です。例えば、ワルツでは拍子の流れやフレーズのまとまりを意識し、舞曲ではリズムやアクセントを整え、情景を描く曲では音色や強弱によって雰囲気を表現するなど、作品ごとに異なる課題に取り組めます。大人の初学者にとっては、基礎練習だけでは得にくい音楽的な充実感を味わいながら、表現力を伸ばせるレパートリーです。また、短い曲を一曲ずつ仕上げることで、譜読みから暗譜、表現の工夫まで、演奏を完成させる一連の経験を積むこともできます。教師は、難易度だけで曲を選ぶのではなく、学習者の好みや得意な表現、現在身につけたい技術を考慮して選曲するとよいでしょう。なお、本書は総合的なメソッドというより、演奏曲を通して学ぶための曲集です。そのため、音符を読むことやリズムを理解するための主教材と併用し、必要なテクニックや読譜上の課題を個別に補いながら使用するのがおすすめです。

「はじめてのギロック
ビギナーのためのピアノ小曲集」
(全音楽譜出版社)

「フレッチャー ピアノコース ブック1」

リラ・フレッチャーによる、曲を弾く経験を通してピアノの基礎を学ぶための入門教材です。鍵盤上の位置関係を理解しやすいように工夫されており、中央のドを中心とした読譜法を取り入れながら、音符の読み方、指番号、リズム、拍子などを段階的に学習します。また、楽譜を読む練習と、音を聴いて覚えたり、教師の手本をまねたりする経験を関連づけていることも特徴です。ブック1では、短く親しみやすい曲に加え、教師と一緒に演奏する連弾曲も収録されています。連弾では、自分のパートを弾くだけでなく、相手の音を聴きながら拍を保つことや、音楽の流れを共有することを学べます。大人の初学者にとっては、理論の説明だけでなく、実際の演奏を中心に学習を進められる点が魅力です。一方、曲を暗記して弾くことに偏ると、初めて見る楽譜を読む力が十分に育たない可能性があります。教師は、手本を聴いて演奏したあとに譜面を確認させ、音符の高さ、音価、指使いを自分で説明できるようにするとよいでしょう。また、音を間違えずに弾くことだけでなく、レガートやスタッカート、強弱、フレーズのまとまりにも注意を向けることで、音楽的な演奏へとつなげられます。体系的な読譜の練習や成人の好みに合った曲集を必要に応じて併用し、教材の進度と本人の目標を結びつけながら活用することが大切です。

「フレッチャー ピアノコース ブック1」
(全音楽譜出版社)

「メトードローズ・ピアノ教則本 ピアノの1年生」

フランスの音楽教育者エルネスト・ヴァン・ド・ヴェルドが著し、安川加壽子の訳・編によって日本で広く普及してきた、伝統的なピアノ入門教材です。初めてピアノを学ぶ人が、鍵盤の位置や音符の読み方から少しずつ理解を深められるように、予備練習と親しみやすい旋律が段階的に配置されています。フランスの歌曲や小品を弾きながら、ト音記号とヘ音記号、大譜表、音程、音符の長さ、拍子などを学ぶとともに、両手で演奏するための基礎を身につけていきます。特徴的なのは、拍子を声に出しながら弾く練習を通して、リズムを数える力と実際の演奏を結びつけていることです。また、レガートやスラー、左右の手のバランス、強弱による表情の付け方などにも重点が置かれ、単に正しい音を弾くのではなく、旋律を歌うように演奏する姿勢を学べます。大人の初学者にとっても、音楽的な表現を基礎練習の段階から意識できる点が利点です。教師は、音符を読む練習と鍵盤を弾く練習を切り離さず、どの音が旋律の中心となっているか、どこでフレーズが区切られるか、どのように音をつなげるかを具体的に説明すると効果的です。なお、本書は基礎を順序よく学べる反面、進め方によっては一つひとつの課題に時間がかかることもあります。学習者の理解度に合わせて復習量を調整し、必要に応じて好きな曲や別の小曲集を併用すると、基礎の習得と演奏の楽しみを両立させやすくなります。

「メトードローズ・ピアノ教則本 ピアノの1年生」
(全音楽譜出版社)

「バスティン おとなのピアノ教本」

ジェーン・スマイザー・バスティン、リサ・バスティン、ローリー・バスティンらによる、大人の初学者のためのピアノ入門教材です。原題は Bastien Adult Piano Course で、日本語版は東音企画から刊行されています。全2巻で構成され、ピアノを初めて学ぶ人が、演奏技術だけでなく、楽譜の読み方や音楽理論も並行して身につけられるように工夫されています。本書の大きな特徴は、バスティンの「ベーシックス」シリーズに含まれるピアノ、セオリー、テクニック、パフォーマンス、初見演奏の学習内容を、ひとつの教本にまとめていることです。複数の教材を別々に用意しなくても、演奏と理論を関連づけながら、順序よく学習を進められます。

第1巻では、正しい姿勢や座り方、指番号といった基本事項から始まり、音符の読み方、リズム、拍子、音程、和音、鍵盤上のポジションなどを段階的に学びます。さらに、ハ長調をはじめとする調性の理解や音階、三和音・七の和音とその転回形など、演奏を深めるうえで必要となる音楽理論も取り上げられています。全8章で構成され、各章には学習内容の復習と、身につけた技術を実際の演奏に応用するためのチャレンジ・ピースが用意されています。収録曲も多彩で、「よろこびの歌」や「ジングルベル」のような親しみやすい旋律から、クラシックの名曲を学習段階に合わせて編曲した作品、ブルースやジャズの要素を取り入れた曲まで、幅広い音楽に触れることができます。第2巻では、第1巻で学んだ基礎を土台として、より発展的な演奏技術や音楽理論を学びながら、レパートリーの幅を広げていきます。

大人の初学者にとって、本書の利点は、演奏技術と音楽理論を別々のものとして扱わず、実際に曲を弾きながら音楽の仕組みを理解できることです。例えば、譜読みで音程を把握し、和音の構成を理解し、指の動かし方を練習したうえで曲を演奏することで、楽譜をただ暗記するのではなく、自分で考えながら弾く力を養えます。また、CD付きの版も用意されているため、模範演奏を聴いて曲の雰囲気やリズムをつかみ、自分の演奏と比較しながら学習することもできます。仕事や家庭の事情で練習時間が限られている人にとっても、ひとつの教本で複数の学習内容を扱えることは便利です。ただし、教材を順番に進めるだけで満足せず、学んだ音楽理論を実際の曲で確認し、リズムや音の長さ、強弱、フレーズにも注意を向けることが大切です。

ピアノ教師にとっても、本書は成人の初学者に必要な学習項目を整理し、体系的なレッスンを組み立てるうえで役立ちます。各章の新しい課題と復習問題を活用すれば、学習者がどこまで理解できているかを確認しながら、次の段階へ進められます。指の動かし方や読譜に問題がある場合には、その場で必要な練習を加え、理論の理解が不十分な場合には、鍵盤を使って音程や和音の仕組みを説明すると効果的です。また、成人の学習者は、上達の実感を得ることだけでなく、好きな曲を演奏することにも大きな関心を持つ場合があります。そのため、本書をレッスンの中心に据えながら、本人が弾きたいクラシック作品や映画音楽、ポピュラー音楽などを適宜取り入れると、基礎学習と音楽を楽しむことの両立につながります。特に、初めから難しい作品に取り組むのではなく、本書で読譜やリズム、和音の基礎を身につけ、その知識を少しずつ実際のレパートリーに応用していくことが重要です。

「バスティン おとなのピアノ教本」は、ピアノを基礎から学び直したい人、楽譜を読む力と音楽理論を同時に身につけたい人、独学ではなく教師の指導を受けながら体系的に学習したい人に適した教材です。教師と学習者が共通の教本を使い、演奏技術、読譜、理論、表現を関連づけて学ぶことで、単に曲を弾けるようになるだけでなく、音楽を理解し、自分の力で新しい作品に取り組むための土台を築くことができます。

「バスティン おとなのピアノ教本 Book1」
(東音企画)

「バスティン ピアノ ベーシックス」

ジェーン・バスティン、ジェームズ・バスティンらによるバスティン・ピアノメソッドの代表的な教材シリーズで、演奏技術だけでなく、読譜、音楽理論、リズム、調性、音楽の構造などを総合的に学べるように構成されています。基本となる「ピアノ」のテキストに加え、「セオリー」「パフォーマンス」「テクニック」を組み合わせて使用する方式が特徴です。それぞれの教材は互いに関連づけられており、主教材で学んだ音符やリズムを理論の課題で確認し、テクニックの練習で演奏動作を整え、パフォーマンス用の曲で学習内容を実践できるようになっています。初期段階では五指のポジションを用いた読譜や基本的なリズムから始め、段階が進むにつれて調性や和音への理解を広げていきます。さらに、学習が進むと複数の調を扱い、音楽の構造を分析する力も養えるため、単に曲を弾けるようになるだけでなく、楽譜の仕組みを理解しながら演奏することを目指せます。大人の初学者にとっても、学ぶべき内容が整理されているため、自分の進歩や復習すべき項目を把握しやすい教材です。教師は、各テキストを機械的に順番どおり進めるのではなく、学習者が苦手とする分野を見極め、読譜やリズム、コード、指の動かし方などを重点的に補うとよいでしょう。また、練習内容が体系的である一方、課題が続くと演奏曲の楽しみが少なくなる場合もあります。本人が弾きたい作品や親しみのある旋律を適宜取り入れ、基礎教材で学んだ技術を実際のレパートリーに応用することが重要です。なお、成人向けには別に「おとなのためのピアノ教本」も用意されているため、学習者の目的、曲の好み、求める学習速度に応じて選ぶとよいでしょう。

「バスティン・ピアノ・ベーシックス」
(ピアノのおけいこ)1
(東音企画)

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バイエル ピアノ教則本 初心者への紹介 使用法 併用して練習するおすすめ楽譜リスト

やさしい紹介

フェルディナント・バイエルの《ピアノ教則本 Op.101》は、ピアノをはじめたばかりの人が、少しずつ基本を身につけていくための教則本です。日本では「バイエル」という名前で広く知られており、長い間、子どもから大人まで多くの初心者に使われてきました。

この教則本では、最初は楽譜の読み方や指の番号、鍵盤の場所など、ピアノを弾くために必要なことから学びます。そして、右手や左手の練習から始めて、だんだん両手を一緒に使う練習へ進んでいきます。簡単な課題から少しずつ難しくなるので、初めてピアノを弾く人でも練習しやすい構成になっています。

バイエルで大切なのは、音符を間違えずに弾くことだけではありません。楽譜を見て音やリズムを理解し、指を思い通りに動かし、両手を合わせて弾く力を育てることができます。これらは、どんなピアノ曲を弾くときにも必要になる基本的な力です。

練習するときは、最初から速く弾こうとせず、ゆっくり正確に弾くことを大切にしましょう。音やリズムを確かめながら何度か練習し、慣れてきたら少しずつ速くしていきます。手や指に力を入れすぎず、自分が出している音をよく聴くことも大切です。

バイエルは、きれいな名曲を楽しむための曲集というより、ピアノを上手に弾くための基礎を学ぶ本です。そのため、バイエルと一緒に、バッハやブルクミュラー、ギロックなどの楽しい曲を弾くのもおすすめです。基礎練習と好きな曲を組み合わせることで、ピアノを学ぶ楽しさも広がります。

バイエルは、ピアノの長い学習の最初に「楽譜を読む」「指を動かす」「両手で弾く」という基本を身につけるための、分かりやすい入門教材です。一曲ずつあせらず練習していけば、少しずつ弾ける曲が増え、次のピアノ曲へ進むための力が身についていきます。

詳しい紹介・解説・使用法

フェルディナント・バイエル(Ferdinand Beyer, 1803/1806–1863)の《ピアノ奏法入門書 Op.101(Vorschule im Klavierspiel)》は、ピアノを初めて学ぶ人のために書かれた19世紀の代表的な教則本です。一般には単に「バイエル」と呼ばれ、日本では明治時代から非常に長く使われてきました。原著は1850年頃に出版され、現在も世界各地で楽譜が出版されています。特に日本での普及は大きく、1889年にはアメリカの音楽教育家L. W. メーソンによって当時の日本の音楽教育機関でピアノ教材として採用されました。

《Op.101》という作品番号だけを見ると一つの大きな曲のように思えますが、実際には、初心者がピアノを学ぶための多数の短い練習曲と予備練習からなる教材です。原題には、幼い学習者のための「ピアノ奏法入門書」であり、106曲の2手・3手・4手の練習曲、予備練習、指の練習、音楽の基礎を含むことが示されています。つまり、単に簡単な曲を集めた曲集ではなく、「楽譜を読むこと」から始めて、少しずつ鍵盤上で音楽を扱えるようにすることを目的とした体系的な入門教材です。

バイエルの最大の特徴は、難しいことを一度に要求せず、非常に小さな段階に分けて技術を導入していることです。最初は音符や休符、音価、拍子、鍵盤の位置など、ピアノを弾くために必要な基本事項を学びます。その後、右手だけ、左手だけ、両手という順序で練習し、さらに教師と生徒が一緒に演奏できる3手連弾や4手連弾も登場します。現在の教則本では当然のように思える「先生と一緒に演奏する」という方法も、バイエルの構成の中にすでに取り入れられています。

初期の練習では、五本の指を比較的狭い音域に置いて、指を順番に動かすことが中心になります。特に前半では、基本的に5音程度の範囲で構成された練習曲が多く、初心者が鍵盤と楽譜を結びつけるのに適しています。右手と左手を別々に動かすだけでなく、両手を同時に動かすことによって、目で楽譜を読みながら左右の手を別々にコントロールする能力を少しずつ育てていきます。

この「少しずつ」という点は、バイエルを理解するうえで非常に重要です。初心者にとってピアノは、右手、左手、目、耳、リズム、指番号などを同時に扱わなければならない楽器です。いきなり広い音域を弾いたり、複雑な伴奏を加えたりすると、楽譜を読むことと指を動かすことの両方が難しくなります。バイエルでは、最初はできるだけ単純な動きに限定し、それを繰り返しながら、徐々に新しい要素を加えていきます。そのため、ピアノを初めて学ぶ人にとって「何を練習すればよいのか」が比較的明確です。

前半の練習では、五指の基本的な動き、音符の読み方、両手の協調、基本的なリズムなどが中心になります。右手と左手が同じような動きをする練習から始まり、両手をオクターヴ違いで動かす練習などへ進みます。このような準備を重ねることで、初心者がいきなり複雑な両手奏に入ることを避けています。バイエルの構成を詳しく見ると、単純な練習の繰り返しに見える部分にも、次の段階へ進むための準備という役割があります。

第64番あたりまでを一つの大きな前半として考えると、その後の第65番以降では、明らかに技術的な内容が変化します。特に重要なのが指くぐりです。親指を使って音階を移動するための基本的な動作が登場し、そこから音階、より広い音域、複雑なリズム、装飾音、半音階など、初心者には一段難しい技術が加わっていきます。つまり、バイエルは最初から最後まで同じ種類の簡単な練習を続けるのではなく、前半で基礎的な両手奏を準備し、後半で鍵盤上をより自由に移動するための技術へ進む構成になっています。

後半に入ると、単に「音を正しく押す」だけでは十分ではなくなります。指くぐりによって手の位置を移動させ、音階を滑らかに弾き、音域の広い旋律を扱い、8分音符などのリズムを正確に演奏する必要が出てきます。さらに装飾音や半音階も加わるため、前半で身につけた基本的な指の独立や両手の協調が、実際の音楽的な演奏へと発展していきます。バイエルを最後まで丁寧に進めることには、単に「106番まで終わった」という以上に、次のレベルのピアノ作品へ進むための基礎を整える意味があります。

一方で、バイエルは現代のピアノ教育の観点から見ると、現在の総合的なピアノ・メソッドとは少し性格が異なります。現代の教材では、読譜、リズム、テクニック、音楽表現、聴音、即興、さまざまなジャンルの曲などを一つの教材の中で幅広く扱うことがあります。それに対してバイエルは、現代の教材と比較すると「ピアノの技術を段階的に身につけるための教則本」という性格が強く、特に技術教材として見ることができます。現在出版されている英語版の解説でも、20~21世紀のピアノ・メソッドと比較すると、むしろテクニック・ブックに近い性格があると説明されています。

そのため、初心者がバイエルを使う場合には、一曲を「弾けるようにする」だけで終わらせないことが重要です。たとえば新しい曲に取り組むときは、まず楽譜を見て、調号、拍子、音符、休符、指番号などを確認します。次に、必要なら右手と左手を別々に練習し、その後に両手でゆっくり弾きます。最初から速く弾く必要はありません。むしろ、ゆっくりしたテンポで正しい音、正しいリズム、自然な指使いを確認し、間違いを減らしてから徐々に速度を上げるほうが効果的です。

特に教師が指導する場合には、バイエルの番号を単純に「何番まで進んだか」という進度表にしないことが大切です。同じ番号まで進んだ生徒でも、楽譜を読む力、リズム感、指の独立、音の聴き方、両手の協調、音楽的な表現力には大きな違いがあります。したがって、「第30番まで終わった」「第50番まで弾いた」ということだけで生徒の実力を判断するのではなく、それぞれの練習曲で何を身につけたかを見るほうがよいでしょう。

また、バイエルでは指番号を単なる暗記項目として扱わないことも重要です。指番号は、楽譜を弾きやすくするための具体的な手段です。同じ曲でも手の大きさや指の長さによって多少の調整が必要になる場合がありますし、古い版と新しい版では指使いが変更されている場合もあります。実際、バイエルの指使いとその変遷について研究も行われています。したがって、教師は印刷された指番号を絶対的な規則として教えるのではなく、「なぜこの指を使うと弾きやすいのか」を生徒に理解させることが大切です。

バイエルのもう一つの重要な特徴は、教師と生徒が一緒に音楽を作ることを想定した練習が含まれていることです。3手連弾では教師が加わって音楽的な伴奏を作ることができ、4手連弾では生徒が一人で練習する場合とは違った音楽の流れを経験できます。これは初心者にとって非常に有効です。まだ自分だけで十分な表現ができなくても、教師の演奏を聴きながら一定の拍を保ち、相手の音を聴いて演奏する経験ができます。バイエルは単なる「一人で指を動かす練習帳」ではなく、もともと教師による指導を想定した教材でもあります。

初心者がバイエルを使用するときは、一日に大量の曲をこなす必要はありません。むしろ、その日の課題を数小節ずつ丁寧に練習し、翌日に前日の内容を復習してから新しい部分へ進む方法が適しています。簡単に見える曲でも、音を間違えずに弾くことだけを目標にせず、一定のテンポを保つこと、音の強さをそろえること、フレーズを意識すること、手や腕を必要以上に緊張させないことなどにも注意すると、教材としての価値が大きくなります。

さらに、バイエルを使っている間にも、できるだけ早い段階から小さな作品を「音楽」として楽しむことが重要です。バイエルの練習曲は基本技術を身につけるためのものなので、すべての曲がコンサート用の魅力的な作品として書かれているわけではありません。そのため、バイエルだけを延々と練習すると、初心者が「ピアノとは練習曲を弾くもの」という印象を持ってしまう可能性があります。バイエルと並行して、短いクラシック小品、童謡、簡単な舞曲、バロック作品などを弾かせると、技術練習と音楽的な楽しさを両立しやすくなります。

逆に、バイエルを「古い教則本だから現在では意味がない」と考える必要もありません。19世紀の教材なので、現代のピアノ教育とは異なる部分がありますが、初心者に必要な基本的な課題、つまり楽譜を読むこと、鍵盤の位置を理解すること、指を独立して動かすこと、左右の手を協調させること、基本的なリズムを身につけることなどは、現在でもピアノ学習の重要な基礎です。現在もさまざまな出版社からバイエルの版や改訂版、併用曲付きの版が出版されていることからも、その教材としての役割が完全になくなったわけではありません。

特に成人の初心者にもバイエルは利用できます。原著は子どもを意識した教材ですが、基本的な内容そのものは年齢を問わず利用できます。大人の場合は、子ども向けの絵や説明が多い現代教材よりも、簡潔に練習曲が並んでいるバイエルのほうが使いやすいと感じることもあります。ただし、成人の場合でも、すべてを機械的に順番通り終える必要はありません。すでに読譜や片手奏ができる場合には、教師が適切な番号から始めたり、必要な練習だけを選んだりすることもできます。

反対に、非常に幼い生徒に対しては、原典の順番をそのまま厳密に進めることが必ずしも最善とは限りません。生徒によって手の大きさ、集中力、読譜能力、音楽経験が違うためです。教師がバイエルを中心教材として使う場合には、バイエルの練習曲を一つの基準として利用しながら、歌う、リズムを打つ、鍵盤を探す、先生と連弾する、簡単な曲を聴くといった活動を組み合わせると、より豊かな学習になります。

バイエルの終盤まで進んだときには、初心者としての最初の段階をかなり越えています。もちろん、バイエル終了がそのまま「初級修了」を意味するわけではありませんが、音階や指くぐり、半音階、より複雑なリズムなどを経験しているため、次の教材へ移るための土台ができています。ここからは、ツェルニー、ブルクミュラー、ソナチネ、バッハの小品、シューマンやチャイコフスキーなどの初級作品、さらにショパンなどへ、目的に応じて進んでいくことができます。

したがって、《ピアノ教則本 Op.101》を最も分かりやすく表現するなら、「ピアノを弾くための最初の技術と読譜を、非常に細かな段階に分けて学ぶための古典的な入門教則本」といえるでしょう。華やかな名曲を学ぶための曲集ではなく、ピアノ演奏の基礎を作るための教材です。初心者にとっては、音符を読むこと、両手を使うこと、指を独立させること、一定のリズムで弾くことを少しずつ学べる点が大きな利点です。教師にとっては、生徒の基礎的な技術を確認しながら、次の段階へ進むための材料として利用できます。

そして、バイエルを最も効果的に使うためには、「番号を早く進めること」よりも、「一つ一つの練習から何を学ぶか」を大切にすることが重要です。簡単な曲ほど、正しい姿勢、自然な手の形、無理のない指使い、安定したリズム、きれいな音、フレーズ、強弱を丁寧に確認できます。そうして身につけた基礎は、バイエルを終えた後にブルクミュラー、ツェルニー、ソナチネ、バッハ、ショパンなど、より本格的なピアノ作品を学ぶ際にも役立ちます。バイエルは古い教材ではありますが、ピアノ学習の最初に必要な「読む・動かす・聴く・合わせる」という基本を順序よく経験できる点に、現在でも大きな価値があります。

「標準バイエルピアノ教則本: 併用曲付」
(全音楽譜出版社)

バイエルが難しい場合のよりやさしいテキストや楽譜

トンプソン「小さなピアニスト」
バーナム「ピアノ・テクニック」
「ピアノ・アドベンチャー」
「アルフレッド・ピアノライブラリー」
ギロック「はじめてのギロック」
「フレッチャー ピアノコース ブック1」
「メトードローズ・ピアノ教則本 ピアノの1年生」
「バスティン ピアノ ベーシックス」

リンク:バイエルよりやさしい
ピアノ初学者のための教本と楽譜リスト

バイエルと並行して使いやすい楽譜

バイエルは基礎練習の性格が強いので、別に「弾いて楽しい曲」「教育的性格小品」を使用して練習すると学習が続きやすくなります。

「ハノン ピアノ教本」
ツェルニー「初歩者のためのレクリエーション」
デュベルノワ「2つの練習曲 Op.176, Op.120」
J. S. バッハ「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」
J. S. バッハ「小プレリュードと小フーガ」
グルリット「こどものためのアルバム Op.140」
グルリット「こども音楽会 Op.210」
ケーラー「子どものための練習曲 Op.190」
ケーラー「12のやさしい練習曲 Op.157」
ブレスラウアー「やさしいピアノ小品集 Op.46」
カバレフスキー「35のやさしい小品集 Op.88」
カバレフスキー「やさしい変奏曲 Op.40-1, Op.51」
カバレフスキー「こどものためのピアノ小曲集 Op.27」
ギロック「こどものためのアルバム」
ギロック「発表会のための小品集」
ブルクミュラー「25の練習曲 Op.100」

バイエル終了後に練習する楽譜

バイエル終了後は多くのピアノ学習者はブルクミュラー「25の練習曲 Op.100」に進んみます。「ブルクミュラー」と並行して練習すると効果的で楽しく、表現やテクニックを伸ばせる楽譜は以下の通りです。(バイエル併用楽譜と重複しています。)

ブルクミュラー「25の練習曲 Op.100」
ツェルニー「100番練習曲 Op.139」
ツェルニー「第一課程練習曲 Op.599」
レオポルド・モーツァルト「ナンネルの音楽帳」
J. S. バッハ「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」
J. S. バッハ「小プレリュードと小フーガ」
「プレ・インベンション」
ギロック「叙情小曲集」
カバレフスキー「24の小品 Op.39」
カバレフスキー「二つのソナチネアルバム Op.13」
ハチャトゥリアン「少年時代の画集」
チャイコフスキー「こどものアルバム Op.39」
シューマン「子供のためのアルバム Op.68」
ソナチネ・アルバム 第1巻のやさしい作品

「標準バイエルピアノ教則本: 併用曲付」
(全音楽譜出版社)

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ハノン ピアノ教本について 特徴 有効性 疑問点 その他のピアノエクサイズ 指のトレーニング 技術練習曲

「ハノン」とは?:紹介

ハノンの『ピアノ教本』は、ピアノを弾くために必要な指の動きや、左右の手の独立性を身につけるための練習曲集です。フランスのピアニスト、シャルル=ルイ・ハノンによって作られ、現在も世界中のピアノ学習者に広く親しまれています。
本書には、指を順番に動かす基本的な練習から、音階やアルペジオ、さまざまな指の組み合わせを使う練習まで、段階的に取り組める課題が収録されています。短い音型を繰り返し弾くことで、指の動きを整え、鍵盤上での指使いや音の粒をそろえる感覚を養うことができます。

初心者にとっては、バイエルなどの入門教本と並行して取り組むことで、楽譜を読む練習とは異なる角度から、ピアノ演奏の基礎を身につける助けになります。ただし、最初からすべての練習を速く弾こうとする必要はありません。まずはゆっくりとしたテンポで、左右の手の動きや音の強さを意識しながら、無理のない範囲で練習することが大切です。

ハノンは、単に指を速く動かすためだけの教本ではありません。毎日の練習に少しずつ取り入れることで、指の動きを確認し、これから学ぶさまざまなピアノ曲に取り組むための基礎を整えることができます。初心者は自分の進度に合わせて練習する範囲を選び、実際の楽曲の練習と組み合わせながら活用するとよいでしょう。

「ハノン」の特徴

ハノンの『ピアノ教本』は、ピアノ演奏に必要な指の独立性、敏捷性、均一なタッチなどを養うための代表的な練習曲集です。フランスのピアニスト・音楽教育者であるシャルル=ルイ・ハノン(Charles-Louis Hanon, 1819–1900)が作曲・編纂した教材で、原題は『60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト』(Le Pianiste virtuose en 60 exercices)といいます。1873年に出版されて以来、ピアノ学習者の基礎的な技術練習に広く用いられてきました。

本書の最大の特徴は、短い音型を反復して弾くことによって、指の動きを整え、一定のテンポと音量で演奏する能力を養う点にあります。一般的な練習曲が旋律や和声、楽曲の構成、音楽的な表現なども学ぶことを目的としているのに対し、ハノンは特定の指の動きや演奏上の技術に集中して練習できるように構成されています。そのため、毎日の練習の初めに指の動きを確認したり、実際の楽曲を演奏するための準備をしたりする教材として活用できます。

本書は全60曲からなり、大きく三つの段階に分かれています。第1部の第1番から第20番までは、指の独立性、敏捷性、均一性などを養うための準備的な練習です。比較的短く、同じような音型を繰り返す構成になっているため、指使いを守りながら、左右の手の動きや音の粒をそろえる練習に適しています。特に第4指と第5指など、動かしにくさを感じやすい指を含む音型に注意して取り組むと、指ごとの動きの違いを意識しやすくなります。

第2部の第21番から第43番までは、より高度な指の動きに加えて、親指をくぐらせる動作、音階、アルペジオなど、実際のピアノ曲にも頻繁に現れる技術を扱います。長調・短調の音階やさまざまな和音に基づくアルペジオを練習することで、鍵盤上での指の移動や調性に対する理解を深めることができます。第3部の第44番から第60番までは、同音連打、トリル、重音、オクターブ、トレモロなど、より高度な演奏技術を扱います。これらはすべての初心者が取り組む必要のある課題ではなく、演奏レベルや学習目的に応じて選ぶことが大切です。

「ハノン」の使用法

ピアノを学ぶ初心者は、まずピアノの基本的な弾き方や楽譜の読み方、五指のポジションなどを身につけたうえで、無理のない範囲から本書を取り入れるとよいでしょう。バイエルなどの入門教本を使用している段階でも、教師が適切な課題を選べば併用できますが、最初から全60曲を順番に練習する必要はありません。まずは第1部の易しい練習から始め、左右の手の動きや指使いを理解し、一音一音を丁寧に弾くことを心がけます。

練習では、速く弾くことよりも、音の長さや強さをそろえ、手や腕に余計な力が入らない状態を保つことが重要です。最初はゆっくりとしたテンポで弾き、音の抜けやリズムの乱れがないかを確認します。安定して弾けるようになったら、少しずつテンポを上げていきます。指を必要以上に高く持ち上げたり、鍵盤を強く押し込んだりする必要はありません。手首や腕の自然な動きを意識し、痛みや強い疲労を感じた場合は練習を中止し、弾き方を見直しましょう。速いテンポで弾くこと自体を目標にするのではなく、無理のない動きで正確に演奏できることを大切にします。

ピアノ教師にとって、ハノンは生徒の基礎的な演奏技術を確認し、練習課題を設定するための補助教材として活用できます。たとえば、左右の手で音の粒がそろわない生徒には均一なタッチを意識する練習を、指の移動に不安がある生徒には音階やアルペジオの練習を取り入れるなど、具体的な課題に合わせて番号を選ぶことができます。また、一定のテンポを保つこと、正しい指使いを習慣づけること、指ごとの動きの違いに気づくことなど、日々のレッスンで確認したい事項を明確にする際にも役立ちます。

ただし、ハノンを機械的に繰り返すだけでは、実際の楽曲に必要な演奏技術のすべてを身につけることはできません。ピアノ曲では、音域や音型が変化するだけでなく、旋律と伴奏の弾き分け、声部のバランス、強弱、フレーズ、ペダリングなど、多様な要素を組み合わせる必要があります。そのため、教師はハノンの練習で得られる基礎的な動きが、実際の楽曲のどの部分に役立つのかを意識させることが大切です。ハノンだけに多くの練習時間を費やすのではなく、バイエル、ツェルニー、ブルグミュラー、ソナチネなどの教材や、さまざまな作曲家の作品と組み合わせて指導すると、より幅広い演奏能力を育てることができます。

ハノンは、初心者にとってピアノ演奏の基礎を整えるための教材であり、経験を積んだ学習者にとっても、特定の技術を確認したり、演奏前に指の動きを整えたりするために利用できる練習曲集です。すべての曲を同じように練習するのではなく、自分の課題や学習段階に合った練習を選び、実際の楽曲の学習と組み合わせることが、効果的な活用につながります。初心者は焦らず着実に取り組み、教師は生徒の手の状態や習熟度に合わせて練習内容を調整することで、本書の特徴を生かした指導ができるでしょう。

ハノンの有効性と日本のピアノ教育における特異性

ハノンの『ピアノ教本』は、ピアノ演奏に必要な指の独立性、敏捷性、均一なタッチなどを養うための代表的な練習曲集です。フランスのピアニスト、シャルル=ルイ・ハノンによってまとめられた本書は、19世紀に出版されて以来、世界各国のピアノ学習者に使用されてきました。特に日本では、バイエルやツェルニーと並ぶ標準的な教材として広く知られており、ピアノを習うならば一度はハノンを練習する、という考え方が長く定着してきました。

しかし、ハノンの有効性を正しく理解するためには、指の独立性や均一なタッチを養うという実際の利点と、従来のピアノ教育で重視されてきた慣習とを区別する必要があります。ハノンは優れた技術練習のための教材ですが、すべての学習者が全曲を同じ方法で練習しなければならないというものではありません。

ハノンの有効性

ハノンの第一の有効性は、特定の指の動きや音型を繰り返し練習することによって、演奏に必要な基本動作を意識的に確認できる点にあります。ピアノ演奏では、五本の指をそれぞれ適切なタイミングで動かし、左右の手を協調させながら、音の強さや長さをコントロールする必要があります。ハノンの練習曲は、こうした動作を比較的単純な音型に分けて練習できるように構成されています。

たとえば、右手と左手で音の粒がそろわない場合、特定の指だけ音が弱くなる場合、あるいは速い音型でリズムが不安定になる場合には、ゆっくりとしたテンポでハノンを弾くことが、問題の発見と修正に役立ちます。複雑な旋律や和声を同時に考える必要が少ないため、指の動きや打鍵の均一性に注意を集中させやすいからです。

第二の利点は、音階やアルペジオなど、実際の楽曲にも頻繁に現れる技術を体系的に練習できることです。音階では親指をくぐらせる動作や指の移動を、アルペジオでは広い音域にわたる鍵盤の移動や手の位置の変化を学べます。これらは古典派のソナタからロマン派の作品、近現代のピアノ音楽まで、さまざまなレパートリーを演奏する際に関係する基本技術です。

第三の利点は、練習内容を明確にしやすいことです。ハノンでは同じ音型を繰り返すため、前回の練習と比較して、テンポや音の均一性、リズムの正確さがどのように変化したかを確認しやすくなっています。毎日の練習に短時間取り入れることで、自分の演奏上の課題を継続的に観察する習慣も身につけられます。

ただし、これらの利点は、単に何度も弾けば自動的に得られるものではありません。練習の目的を理解し、実際の演奏で生じている問題と結びつけて取り組むことが重要です。ハノンを速く弾けるようになったからといって、すべてのピアノ曲を速く、正確に、自由に弾けるようになるわけではありません。練習によって改善されるのは、基本的にはその練習で扱った動作や、それに関連する技術だからです。

ハノンの限界と誤解

ハノンについて考える際には、技術練習と音楽的な演奏との違いを理解することも大切です。ハノンの多くの練習曲は、特定の動作を反復することを目的としているため、旋律の歌わせ方、フレーズの方向性、和声の変化、声部の弾き分けなどを自然に学べる構成にはなっていません。

実際のピアノ曲では、すべての音を同じ強さで弾けばよいわけではありません。旋律を伴奏よりも際立たせたり、フレーズの終わりに自然なまとまりをつくったり、和声の変化に応じて音色を調整したりする必要があります。こうした能力は、ハノンだけでは十分に育てられず、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、シューマンなどの作品を通して学ぶ必要があります。

また、ハノンを指の筋力を鍛えるための単純な筋力トレーニングとして理解することにも注意が必要です。ピアノ演奏には、指だけでなく、手首や腕を含めた身体全体の協調、鍵盤に触れる深さや速さの調整、必要に応じた脱力が関係しています。指を高く持ち上げることや、鍵盤を強く押し込むことを無条件に求めたり、無理にテンポを上げたりすると、かえって動作が硬くなる場合があります。痛みや強い緊張を感じるような練習は避けるべきです。

さらに、ハノンを最初から最後まで順番に練習することが、すべての学習者にとって最も効果的とは限りません。初心者であれば、必要な技術を学ぶ前に難しい練習へ進むことは適切ではありません。一方、ある程度の演奏経験がある学習者でも、すでに十分に習得している音型を長時間繰り返す必要はありません。現在の課題に適した練習を選び、改善が確認できたら、その時間を別の技術や実際の楽曲の練習に振り向けることが合理的です。

ハノンのような基礎練習では、実際に演奏したい作品と結びつけて学ぶことも重要です。ハノンを学ぶこと自体が目的になるのではなく、そこで得た技術を作品の演奏に応用できることが大切なのです。

日本のピアノ教育におけるハノンの特異性

ハノンが日本で特に重要な位置を占めている背景には、日本のピアノ教育で、段階的な教則本と練習曲集を組み合わせて技術を習得する方法が長く用いられてきたことがあります。

日本の伝統的な学習コースでは、バイエルで楽譜の読み方や基本的な運指を学び、ハノンで指の基礎練習を行い、ブルグミュラーやツェルニーでより多様な演奏技術を学び、ソナチネやソナタへ進むという学習経路が広く知られています。このような教材の組み合わせでは、それぞれの教本に特定の役割を持たせやすくなっています。ハノンは、そのなかで指の動きや均一なタッチを集中的に練習する教材として位置づけられてきました。

この位置づけは、日本の楽譜出版にも表れています。全音楽譜出版社の『全訳ハノンピアノ教本』は1955年に発売され、バイエル後半から併用し、上級まで使用する教材として紹介されてきました。同社の説明では、指の独立性と均一性を養うための必携の教本とされています。こうした長年の出版と指導上の位置づけは、ハノンが単なる一冊の練習曲集ではなく、日本のピアノ学習における定番教材として定着したことを示しています。

また、日本ではハノンが「ピアノを習う人ならば取り組むべき基礎教材」として認識されやすい傾向があります。レッスンで毎日練習するよう指示されたり、曲の練習に入る前にハノンを弾く習慣が勧められたりすることがあります。このような使い方は、基礎技術の確認を習慣化する点では有益です。しかし、その習慣が強くなりすぎると、ハノンを弾くことそのものが学習の目的になり、なぜその練習をしているのかが見えにくくなる可能性もあります。

なお、ハノン自体は日本独自の教材ではなく、海外でも知られ、使用されています。日本での特異性は、ハノンが日本だけで使われていることではなく、バイエルやツェルニーなどと並ぶ伝統的な学習経路のなかで、基礎練習の定番として強く認識されてきた点にあると考えるのが適切です。

一方、日本のピアノ教育も一様ではありません。音楽大学を目指す学習者、趣味として学ぶ大人、保育者養成課程の学生などでは、教材の選択や練習の目的が異なります。保育者養成に関するピアノ指導者への調査でも、バイエルが主教材として根強く用いられる一方、ハノンやツェルニー、ブルグミュラーなどが技術を強化するための併用教材として使用されていることが報告されています。ただし、こうした調査は特定の地域や教育課程を対象としたものであり、日本全国のすべてのピアノ教育を代表するものではありません。

ハノンのピアノ教育に対する疑問

ハノンの『ピアノ教本』は、ピアノ演奏に必要な指の独立性や均一なタッチを養うための教材として、長年にわたって世界中で使用されてきました。特に日本では、バイエルやツェルニーなどと並んで、ピアノ学習の基礎を身につけるための定番教材として広く知られています。しかし、現在のピアノ教育という観点から考えると、ハノンの使用方法や教育上の位置づけについて、改めて検討すべき点もあります。

最も大きな疑問は、ハノンを練習すること自体が目的になっていないか、ということです。ピアノを学ぶ目的は、単に指を速く動かせるようになることではありません。楽譜を理解し、音楽の構造を捉え、美しい音色を生み出し、作品の魅力を表現できるようになることも重要です。ところが、毎日決められた番号を弾き、一定のテンポに達するまで繰り返すという練習が中心になると、何のためにその練習をしているのかという本来の目的が見えにくくなる可能性があります。

指を独立させる練習は本当に必要なのでしょうか

ハノンの基本的な考え方は、指を個別に動かす能力を養い、均一で敏捷な指の動きを身につけることにあります。この考え方には一定の合理性があります。実際、ピアノ演奏では指を適切に使い分けることが必要であり、音の粒をそろえたり、速い音型を正確に演奏したりするための基礎練習は役立ちます。

しかし、実際のピアノ演奏は、指だけで行うものではありません。手首、腕、肩などを含めた身体全体の協調が必要であり、音色やフレーズに応じて動作を柔軟に変えることも求められます。指を一本ずつ強く動かすことや、指を高く持ち上げることを一律に求めるだけでは、演奏技術の全体像を十分に捉えられません。

また、ピアノ演奏における指の独立性は、他の指や手全体の動きから完全に切り離して理解できるものではありません。実際の楽曲では、音型や音域、テンポ、強弱などに応じて、指と手首、腕の動きを組み合わせる必要があります。そのため、単純な音型で指の動きを練習するだけでなく、実際の楽曲を通して、身体全体をどのように協調させるかを学ぶことも重要です。

ハノンの音型を使用して特定の動きを練習することには意味がありますが、その練習方法をすべての学習者に一律に適用する必要があるのかについては、検討の余地があります。

機械的な反復は演奏技術を向上させるのでしょうか

ハノンの大きな特徴は、比較的単純な音型を何度も繰り返すことです。同じ音型を反復することで、指使いやリズムを確認し、動作の不均一さを発見しやすくなります。一方で、反復の回数を増やすこと自体が、必ずしも効果的な練習につながるとは限りません。

たとえば、ある音型を十分に正確に弾けるようになったあとも、同じ練習を長時間続ける必要があるのでしょうか。すでに習得した動作を目的もなく繰り返すよりも、現在練習している曲のなかで難しい部分を取り出し、必要な技術を集中的に練習するほうが、効率的な場合もあります。

また、ハノンを速く弾けるようになることと、実際の楽曲を自在に演奏できることは同じではありません。一定の音型を高速で正確に演奏できても、複雑な旋律や和声を理解し、声部のバランスを整え、適切な音色で表現できるとは限りません。練習で身につけた技術が、別の音型や楽曲にどの程度応用できるかは、学習する内容や練習方法によって異なります。

この問題は、ハノンに限らず、あらゆる基礎練習に共通するものです。反復練習を否定する必要はありませんが、反復すること自体を学習の成果と考えるべきではありません。何を改善するために練習し、どのような変化が生まれたのかを確認することが大切です。

音楽性を伴わない練習の問題

ハノンの多くの練習曲は、特定の指の動きや演奏技術を集中的に練習するために作られています。そのため、旋律の歌わせ方、フレーズの方向性、和声の変化、音色の使い分けなどを学ぶ機会は限られています。

もちろん、すべての練習が音楽的な作品として成立している必要はありません。技術に集中するための練習には、その役割があります。しかし、基礎練習と音楽表現の練習が完全に分離されると、学習者が技術を何のために身につけるのかを理解しにくくなることがあります。

ピアノを学ぶ人にとって、バッハの作品で複数の声部を弾き分けること、モーツァルトのソナタで明瞭なタッチを身につけること、ショパンの作品で旋律を歌わせることも、重要な技術の学習です。こうした作品には、演奏技術と音楽的な表現が密接に結びついているという利点があります。

そのため、ハノンだけで技術を習得してから作品に進むという考え方よりも、実際の楽曲を学びながら必要な技術を発見し、それに応じて基礎練習を取り入れるという方法にも十分な合理性があります。技術と音楽性を別々のものとして扱うのではなく、両者を結びつけて指導することが大切です。

すべての学習者に同じ教本が必要なのでしょうか

もう一つの疑問は、ハノンをすべての学習者が同じように練習する必要があるのかという点です。ピアノを学ぶ目的や習熟度は、人によって大きく異なります。

音楽大学への進学を目指す学習者と、趣味として好きな曲を弾きたい学習者では、必要とする技術も練習時間の使い方も異なります。また、初心者にとっては、楽譜を読むこと、左右の手を協調させること、基本的なリズムを理解すること自体が大きな課題です。その段階でハノンの練習を大量に課すことが、必ずしも最善の方法とは限りません。

すでに十分に習得している音型を長時間繰り返すよりも、本人の課題に応じた練習を選ぶほうが合理的です。指の動きに問題があれば該当する練習を取り入れ、音階やアルペジオに課題があれば、それらを重点的に学びます。特定の技術に困っていない学習者であれば、レパートリーの学習に多くの時間を使うという選択も考えられます。

このように、ハノンは誰にとっても同じ量が必要な必修課題というよりも、学習者の状態や目標に応じて使い方を調整できる教材として捉えるべきでしょう。

身体への負担についても考える必要があります

ハノンを使用する際には、身体への負担にも注意する必要があります。指を高く持ち上げたり、強い力で鍵盤を押したり、速いテンポで長時間反復したりする練習は、身体に余計な緊張を生むことがあります。特に、手や腕の状態を十分に確認せず、教師から指定されたテンポや練習量を達成することだけを目標にすると、無理な弾き方が習慣になる可能性があります。

ただし、ハノンという教本そのものが必ず身体に害を与えるわけではありません。問題になるのは、個人の身体の状態や技術に合わない方法で練習したり、痛みや強い緊張を我慢して反復したりすることです。無理のない動作を意識し、必要以上の力を使わずに弾くことが大切です。痛みや違和感が生じた場合は練習を中止し、弾き方や練習量を見直す必要があります。

現代のピアノ指導では、指の動きだけに注目するのではなく、手首や腕を含めた身体全体の協調を重視する考え方もあります。ハノンを使用する場合にも、書かれている練習方法を絶対的な規則と考えるのではなく、より自然で負担の少ない演奏動作を身につけるという視点が必要です。

日本のピアノ教育における慣習への疑問

日本では、バイエル、ハノン、ブルグミュラー、ツェルニー、ソナチネといった教材を段階的に学ぶ方法が広く知られています。こうした学習経路には、基礎から応用へと段階的に技術を身につけられる利点があります。一方で、伝統的に使用されてきた教材が、十分な検討を経ないまま、当然のように課されることはないでしょうか。

ハノンが長年使用されてきたという事実は、その教材が多くの教師や学習者に受け入れられてきたことを示しています。しかし、長い歴史があることだけで、現在のすべての学習者にとって最適な教材であると証明されるわけではありません。定番教材であることと、全員に必須であることは区別する必要があります。

たとえば、教師が生徒にハノンを毎日練習するよう指示するのであれば、その目的や期待される効果について説明できることが望ましいです。指の独立性を養うためなのか、音の粒をそろえるためなのか、音階やアルペジオを学ぶためなのかによって、必要な練習内容も時間も異なります。目的が明確であれば、生徒も練習の意味を理解しやすくなります。

また、ハノンを弾いていないことを理由に、基礎練習が不足していると判断することも適切ではありません。音階やアルペジオ、ツェルニーなどの練習曲、実際の楽曲の部分練習を通じて、同様の技術や関連する能力を養うこともできます。重要なのは、特定の教本を使用したかどうかではなく、必要な技術がどの程度身につき、作品の演奏に生かされているかということです。

ハノンをどのように見直すべきでしょうか

ハノンの教育上の問題は、教本自体の価値だけでなく、それをどのように使用するかという指導方法にも関係しています。すべての曲を最初から最後まで順番に練習し、できるだけ速く弾くことを目指す方法だけが、唯一の正しい使い方ではありません。

たとえば、現在学んでいる曲に特定の指の動きが必要であれば、その動きに関連するハノンの練習を選ぶことができます。音の均一性に課題があれば、ゆっくりしたテンポで音量のばらつきを確認します。一定の音型を安定して弾けるようになったら、練習した技術を実際の楽曲のなかで使えるかどうかを確認します。このような方法であれば、ハノンは単なる反復課題ではなく、具体的な技術的問題を解決するための教材になります。

また、練習時間をハノンだけに偏らせないことも重要です。ピアノ学習では、基礎技術の練習、練習曲、楽曲の分析、初見演奏、音楽表現など、さまざまな学習を組み合わせる必要があります。限られた時間のなかで、どの練習にどれだけ取り組むことが最も有益なのかを考えることは、教師にとっても学習者にとっても重要な課題です。

ハノンを完全に否定する必要はありませんが、伝統的な教材だからという理由だけで無条件に使用し続ける必要もありません。教材の長所と限界を理解し、学習者にとって必要な部分を選んで活用する姿勢が求められます。

結論

ハノンの『ピアノ教本』は、指の動きや均一なタッチなど、ピアノ演奏の基礎技術を練習するための有用な教材です。しかし、練習すること自体が目的になったり、速く弾くことだけが評価されたり、すべての学習者に同じ方法が適用されたりする場合には、教育上の問題が生じる可能性があります。

ピアノ教育で大切なのは、特定の教本を最後まで終えることではなく、学習者が音楽を理解し、自分の身体を無理なく使い、作品をより豊かに演奏できるようになることです。そのためには、ハノンのような基礎練習と、実際の楽曲を通した音楽的な学びを結びつける必要があります。

長年の慣習をそのまま維持するのではなく、なぜその練習が必要なのか、どのような効果が期待できるのか、ほかの方法でも同じ目的を達成できるのかを考えることが重要です。ハノンを絶対的な必修教材として扱うのではなく、学習者の目的や課題に応じて柔軟に活用することが、より効果的で充実したピアノ教育につながるのではないでしょうか。

全訳ハノンピアノ教本
(全音楽譜出版社)

ハノンと同レベルのエクササイズ

アロイス・シュミット:『指の準備練習 Op.16』

ハノンに最も近い種類の指の練習です。五指の独立性、均一なタッチ、指の柔軟性を養い、音階やアルペジオの基礎にも取り組めます。ハノンの代替教材として特におすすめです。

ヨハン・ピシュナ:『リトル・ピシュナ:48の基礎練習曲集』

ハノンに似た反復型の練習を行いながら、指の独立性、指の間隔の拡張、親指の回転、手の移動を練習します。全調での練習も取り入れているため、鍵盤上の指の動きを体系的に学ぶことができます。

カール・チェルニー:『実用的指の練習 Op.802』

指の運動や鍵盤上のさまざまな音型を反復して練習する、機械的な要素の強い教材です。楽曲の表現よりも、指の動きや演奏技術を集中的に鍛えたい場合に適しています。

メカニカルな要素があるエチュード

カール・チェルニー:『初心者のための実用的な方法 Op.599』

五指の練習、親指の移動、オクターブを超える音型、調号、速いパッセージなどを段階的に学びます。純粋なエクササイズよりも旋律的な要素がありますが、基本的な指の運動を身につけるための練習曲として有用です。

カール・チェルニー:『30の技巧練習曲 Op.849』

指の敏捷性、均一なパッセージ、アーティキュレーション、鍵盤上の運動などを扱う技術的なエチュード集です。ハノンのような反復練習を、より楽曲らしい形式で学びたい場合に適しています。ハノンの易しい部分より難しい課題も含むため、学習者の進度に合わせて選ぶとよいでしょう。

カール・チェルニー:『40の日課練習曲 Op.337』

日々の技術練習を目的としたエチュード集です。指の運動や音型の反復を中心とする練習を通して、演奏技術を継続的に整えることができます。ハノンのような独立したエクササイズと、より楽曲的な練習曲との中間的な教材として検討できます。

ヘルマン・ベーレンス:『新しい速度教本 Op.61』

指の運動、音の均一性、速度、左右の手の協調を学ぶための練習曲集です。ハノンのような単純な音型の反復だけでなく、旋律的な要素を含むエチュードを通して技術を身につけたい場合に適しています。

「ハノン」に続くピアノ・エクササイズ

ヨハン・ピシュナ:『60の練習曲』

ハノンの次に取り組む候補として、特におすすめです。指の独立性、指の拡張、均一なタッチ、複雑な音型の運動などを発展させます。

エルンスト・フォン・ドホナーニ:『指の練習』

指の独立性や精密なコントロールを追求する、高度なエクササイズです。短い練習でも正確さが要求されるため、ハノンを十分に習得した中上級者以上に向いています。

ヨハネス・ブラームス:『51の練習曲』

重音、指の独立性、リズム、手の動きなどを高度な水準で練習する教材です。専門的な演奏技術を深めたい学習者向けで、ハノンよりも大幅に難しくなる課題があります。

シャルル=ルイ・ハノンの生涯

シャルル=ルイ・ハノン(Charles-Louis Hanon, 1819–1900)は、フランスのピアニスト、オルガニスト、作曲家、音楽教育家である。ピアノの指の訓練を目的とした教則本『60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト(Le Pianiste virtuose en 60 exercices)』の著者として知られ、現在も世界各国のピアノ教育で広く使用されている。日本では一般に「ハノン」の名で親しまれ、ピアノを学ぶ人にとって、バイエルやチェルニーと並んでなじみ深い存在となっている。

ハノンは1819年7月2日、フランス北部のルネスキュールに生まれた。幼少期から音楽に親しみ、地元の教師からオルガンを学んだとされる。その後、1846年にブローニュ=シュル=メールへ移り、オルガニストおよび聖歌隊を指導する楽長として活動した。同地では、音楽家でもあった兄フランソワと暮らしていた。彼の生涯については詳しい記録が多く残されているわけではないが、教会音楽と音楽教育が、その活動の重要な基盤となっていた。

ハノンはピアノだけでなく、オルガンやハルモニウムのための作品、声楽作品、音楽理論や演奏技術に関する教材なども手がけた。初期の出版作品には、1854年に発表されたピアノ曲『サヴォワの山々(Les Montagnes de la Savoie)』がある。その後も、ピアノ学習者のための小品集や、教会で使用するオルガン・ハルモニウムのための作品、聖歌集などを出版した。ハノンの活動は、演奏会用の作品を生み出すことだけではなく、実際の音楽教育や教会での演奏を支えることにも向けられていた。

彼の名を後世に伝えることになったのが、1873〜1874年ごろに刊行された『60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト』である。この教則本は、指の敏捷性、独立性、力、均等性、手首の柔軟性などを養うことを目的として構成されている。短い音型を繰り返し練習することで、左右の手の動きや各指の働きを整え、より複雑なピアノ作品を演奏するための基礎的な技術を身につけようとするものである。旋律や和声の美しさを味わう作品集というよりも、演奏に必要な運動能力を段階的に訓練するための実用的な教材として考案された。

この教則本は、音楽院や各地の音楽学校で使用されるようになり、やがて世界中のピアノ学習者に広まった。特に、同じ音型を繰り返す練習方法は、日々の練習に取り入れやすく、演奏を始めたばかりの学習者から高度な技術を身につけようとするピアニストまで、幅広い層に知られるようになった。一方、ハノンの練習曲を実際の演奏技術の向上に役立てるためには、単に速く弾くことだけを目標とせず、正確さ、音の均一性、適切な手の動き、不要な力みの回避などにも注意することが大切である。

ハノンは1900年3月19日、ブローニュ=シュル=メールで80歳の生涯を閉じた。彼の名は、数多くの創作活動よりも、ひとつのピアノ教則本によって世界的に知られるようになった。しかし、その教則本が世代や国境を越えて読み継がれてきたことは、ピアノ演奏における基礎技術の重要性を示している。ハノンは、優れた演奏に必要な指の訓練を独立した学習課題として体系化し、ピアノ教育の歴史に確かな足跡を残した人物である。

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